自分で理解出来る大人のいじめは自分が変わるしかない 「見た目」「性格」「家庭環境」の問題と言った 分りやすい原因 からいじめに合ってしまうこともあるかと思います・・・. ぼくがこの記事を書いたのは 社会学者など専門家の多くも、従来のように学校共同体を基本単位としては捉えずにクラス制度を解体して、大学のように科目ごとに選択して受講したりする必要や多様な教育機会の拡充が唱えられています。いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因(下)震災後も「絆」ということを強調することに称賛と同時に懸念も示されました。それは、多様であるはずのきずなを、社会がノリで決めた「こうあるべき」という単一のありかたを全体に覆いかぶせることへの懸念です。「群生秩序」とは、そこでの善し悪しが「みんなの気持ち」で情動的に決まってしまう秩序のことです。言い換えれば、その場の「ノリ」が決定する秩序です。ノリを壊すものは、大罪を犯すものとして徹底的にいじめられるようになります。群生秩序の中では、ノリの中で生まれる基準をもとに身分がうまれる。こうした秩序は、学校内では特にスクールカーストと呼ばれます。「コミュニケーション能力」や「リーダーシップ」などで序列され、当事者とっては「イケてる-イケてない」といった言葉で表現される序列である。身分の上下によって、ふるまい方にも制限が加えられる。例えば、身分が下の生徒が調子に乗ったりすれば、厳しく制せられる。笑顔でいるだけでも、調子に乗っていると、むかつきを覚えられることになる。この意味においては、いじめを「悪魔の行為」と言って罰してみても、話が通じません。社会的な存在として模範的に行動した結果であり、当事者にとっては悪でも何でもありません。それぞれは、私たちにとってはなくてはならないものです。ただ、人によってあり方はさまざまですし、時代によっても急速に変化します。その多様性や時代性を考慮せず、頭の中でこしらえた「こうあるべき」「こうであるにちがいない」という幻想を他者に強制するようになると、たちまち「全体主義的(ハラスメント的)」なものとなってしまいます。いじめ問題を扱うNPOも活動しているため、学校の対応が十分ではない場合に相談することも有効です。前回につづき、いじめについてまとめてみました。よろしければ、ご覧ください。大人の世界、仕事でも同様です。プロスポーツの世界でも、チームが変わるだけで、監督が代わるだけで活躍できなくなる、できるようになる選手はたくさんいます。人間とは想像以上に環境に左右される存在であることがわかります。これらも一見すると、異常な考えを持つ先生や保護者たちが責任を取らされることを恐れて被害者をさらに追い詰めている、といったように見えます。実際は、異常なのではなくて、先生たちや保護者も学校という共同体の秩序に対して「正常に」従順なために起こる現象です。たとえば、「ナチズム」「ファシズム」などは危険なものだということは誰でもわかりますが、「家族」「友だち」「学校」というと、表面で語られる家族愛、友情、教育愛などに惑わされて、その問題点はなかなか感じ取ることはできなくなってしまいます。悩みの原因や治し方についてさらに知るために無料メルマガの購読はこちらたとえば、いじめが発生した際に警察などに告発した被害者側が、学校の保護者達や先生からバッシングに遭ったり、「学校を守れ」と生徒や保護者達が学校や先生を擁護する署名活動をしたり、といったことがしばしば起こります。あるいは、先生たちがいじめがあったことを認めない、被害者への対応が悪いことも珍しくありません。それでは集団生活での所作が身につかないではないか、いじめというマイナス要素があってもそれに耐えることで社会で生き抜く力が身に付くという反論も予想されます。しかし、科目単位でも、集団での活動や作業は当然ながら発生します。さらに、集団規範が、場面ごとに構成するメンバーによって異なる、自分の役割や位置づけも変化する、ということを経験することはとても重要です。いじめとは、共同体の秩序そのものがもたらす現象です。一般に考えられるように秩序の乱れやハプニングによるものではありません。秩序が乱れた状態の時、人間であれば悩み(不全感)にある時に、そうした指針が示されると熱狂的に支持されることがあります。当事者も充実を感じることがあります。かつてのナチスドイツなどで、党員や市民がイデオロギーを獲得していきいきしている記録映画がありますが、まさにあのような状態です。しかし、全体が成長している時はまだ良いのですが、しばらくするともともと持っている多元的な性質はおさえられるものではないため、全体の秩序は抑圧的となります。学校(職場、家庭など)はまさに、その中間集団の代表格のような存在です。過密な空間と時間に生徒を押し込めて共同体を押し付けることが、いじめを生む背景にあると専門家により指摘されています。群生秩序から見れば、市民社会の秩序である「人権」や「生命倫理」は、秩序を脅かすものでしかなく、大人たちが人権を持ち出して、「おまえたちは人として大切なものがわかっていない」と叱っても、「あなたのほうがわかっていない」「なにもわからないくせに」とただ反発されてしまいます。実際に、いじめを行っていた生徒たちの多くがそのように証言しています。子どもたちは、無秩序でも、倫理がわからないわけでもなく、むしろ彼、彼女らが属する秩序の倫理に従っている点で「倫理的」「秩序的」であり、共同体の成員として「模範的」であるのです。いじめについての議論でよく見られる誤解は、「秩序の解体(無秩序)」「規範意識の欠如」「幼さ」といったことがあります。逆に、「秩序の加重さ」「濃密すぎる人間関係」「狡猾さ」ととらえる論者もいます。事実、いじめを受けた子が転校した先では普通に生活できたり、それまでいじめられていなかった子がいじめられるようになることがあります。コミュニケーションを操作したり、無視したり、といった微妙な問題を当事者が現場で対処することは容易ではありません。中長期的には、上にも書きましたように、特定の秩序を強制しないような仕組みづくりが必要です。私たちも、本当の絆とは何か?多様性とは何か?といったことへの理解が広まることも大切です。中間集団には、かならず「模範生」「スター社員」「優等生」がいます。その模範生の存在が周囲のメンバーをさらに苦しめることになります。模範生がいるということは、システムではなく、自分に問題があるとみなされてしまうからです。「会社」「地域」「友だち」「夫婦」等も同様です。表面的な言説に幻惑されず、「機能体」としてとらえることで、その本質(エートス)が見えてきます。実は、カリスマとなるような経営者やセラピスト、あるいは家庭の中で父親、母親、妻、夫などが、「これこそがあるべき人間のありかただ」と打ち出して、それに従うのも実は全体主義なのです。ただ、環境を変えることは「逃げ」「弱さ」ではないということです。私たち人間は本来、適切な環境を選択しながら、自己を形成していくものだからです。従来信じられてきたように、進路が単線で自分に合わなくても我慢して歩いていかなければならないといった考えは本来の在り方ではありません。いじめのある環境からはちゅうちょなく離れることです。依存症の研究などでも示されている定義ですが、人間はさまざまなものに依存しながら生きています(健全な依存)。しかし、限られたものにしか依存できなくなると、そこから離れることは死を意味するため、過度なしがみつきが生まれます(病的な依存)。これが依存症のメカニズムとされるものです。短期的には、いじめ(ハラスメント)があまりにもひどい場合は、学校であれば親、教師、会社であれば人事、労組、外部の相談窓口などの適切な機関に相談することです。その際は普段から細かな記録を取っておくことは大切です。もちろん、相談相手自体が秩序に巻き込まれているため、適切な対処が期待できない場合もたくさんあります。セカンドハラスメントと言いますが、訴えた側が悪いとされることもあります。そのため、最終的には、環境を変える必要も覚悟する必要があります(本来は、出ていくべきは加害者であることは言うまでもありませんが)。一般の職場でも、成果主義が破たんしたように、客観的に仕事ができるかどうかを決めることはとても難しいことです。営業成績で無理に線を引けば、ある意味明確になったように見えますが、実はノリで決めたある基準で単純化しただけにすぎません。ある会社で「できない社員」とされている原因が、その会社という共同体のノリで決めた基準が呪縛となって、動けなくなっているためであることもしばしばです。実際、長年勤務経験のある方であればわかりますが職場の評価とはその時の空気で容易に変動することがわかります。役員、管理職の好みで基準は大きく変わるあいまいなものなのです。そのため、共同体の秩序が生む問題に対しては共同体に深くコミット(関与)しているメンバーは仲裁者にはなりえないということです。学校以外でも、会社、家族内で起きるハラスメントに対して、上司や親に訴えても、訴えた側が悪く言われたり、まったく取り合ってもらえない、軽くしか扱ってもらえないのはこうしたことが原因です。「家族」「夫婦」等も同様で、当たり前のものとせずに、例えば、「安心安全な環境の提供」「社会で生きていくための導きや支え」といった“機能”が満たされていないならば、その家族には問題があり、その環境からは離れる、あるいは専門家のサポートが必要となります。ノリというと子どもじみて感じられますが、凝集性の高い職場(例えば病院や会社など)では、大人でも当たり前にノリで秩序が決まり、それに従い、同じように動かない同僚を「むかつき」、理由をつけて攻撃しています。ただ、大人の場合は、子どもと違い、より「もっともらしい」理由で攻撃するかどうかの違いだけです。いじめについても、いじめる側がなぜ全能欲求によってその場をコントロールしたくなるのかと言えば、「依存する場が学校しかない」からです。専門家も指摘するように、例えば、予備校や自動車教習所でいじめはおこりません。なぜなら、所属する場所はほかにもあるからです。社会学者の内藤朝雄氏はこうした多様なつながりを「絆ユニット」と呼んでいます。例えば、「学校」の機能とは、本来、「産業的身体の育成(将来、社会に出て働けるような知識や規範を身に付けること)」です。子どもも10人いれば10人ともあり方が異なります。最近では、非定型発達という考えが提唱されるようになっているように、想像以上に人間は異質なもので、単一の秩序、規範では収まることはできません。秩序とは単一ではなく、現場では複数のローカルな秩序がせめぎあっています。これを「群生秩序」と内藤氏は呼んでいます。反対に、人権などの普遍的な理念に基づくものが「市民社会の秩序」です。これらは当事者にとっては容易に変えられないもののように見えますが、実は社会構成主義的(そこにいる人たちの意識)に作られてモノであり、実態のあるものではありません。絆は一つではありません。多種多様なものであり、さまざまなものとの接続と離脱をくりかえりながら人間は生きていきます。最近では「愛着」という概念がブームとなっていますが、それが絶対視され「それしかない」となった瞬間に全体主義的(ハラスメント的)となり、私たちを苦しめます(実際、「愛着」とは多様な人間のきずなの一つにすぎません)。社員にも役職以外にも、そうした身分(「できる社員-できない社員」)があります。そして、凝集性の高い職場では、できない社員が笑顔を見せると、「そんなことしている暇あるの」「そんな調子に乗ってていいの」と、あたかもカーストの下位身分のようにとがめられるようになります。内藤朝雄氏の「いじめの社会理論」と従来のいじめ原因論との違いをまとめると下記のようになります。上記にも書きましたが、秩序が揺らいでいる中で、造られた単一の人工的な理念や秩序を全体に覆いかぶせて、それに従うことが正しいとすることを「全体主義」と言います。現代においては、残念ながら、「家族」「友だち」「夫婦」「性別」「学校」「会社」「地域」そして「愛着」「絆」などがまさにその全体主義に該当するような作用を及ぼしてしまっています。