あなたが最も良い歌声だと思う、日本人のオペラ歌手・声楽家の方を教えてください。音域は問いません。可能であれば男性と女性どちらも挙げてもらえると嬉しいです。 昔の自分。今は単な … 小森輝彦. 今仲幸雄.
ジャパン・アーツの方も「君はヨーロッパで研鑽を積んで、時々凱旋公演するみたいな形が絶対に良いよ」とおっしゃってくださいました。― 意外です。新日鐵住金君津製鐵所がある土地柄ですね。オペラとはほど遠い。― その教授陣の中でも最も影響を受けたと思われるのは、どなたですか?― 楽しさは良く伝わってきました。ところで、ご出身はどちらですか?リート・オラトリオ解釈を英国人のピアニスト、チャールズ・スペンサーに、そしてドイツ歌曲演奏者の第一人者で、私と同じバス・バリトンのオランダ人、ロベルト・ホルに師事しました。平野は西洋人の演者の中でさえも、最も体格が良くて堂々としていた。歩き方、歩幅、発声、背筋、どれを取っても普通の日本人ではない。普通の日本人は西洋人の間に立つと「見劣りする」と言われるが、彼は違った。あまり好きな言い方ではなが、「日本人離れ」していた。このような素晴らしい環境を捨てて、日本を活動の拠点にするということは、今のところ考えてはおりません。日本での所属事務所のジャパン・アーツの関係者も、私がヨーロッパでキャリアをどんどん積んで、ソリストとしての価値を上げることを望んでおります。同事務所に所属して以降、日本での演奏の機会がどんどん増えています。ヨーロッパでの研鑽の成果を日本のお客様の前でも披露できることは、私にとって本当に嬉しいことです。2000年に日大を首席で卒業し、第70回読売新人演奏会に出演してすぐにオーストリアへ渡りました。23歳の時です。留学に備え、ドイツ語は日本にいたときから語学学校に通い、ある程度準備はしていましたが、日常会話ができる程度の語学力でしたが、オーストリアではウィーン国立音大の大学院に入るのではなく、学部の1年生から再び勉強を始めました。― 2003年にオーストリア共和国奨学生となって、そして2007年にオペラ科を主席で卒業されたのですね。メジャー・リーグにコテンパンにやられていた日本野球も野茂以降、日本人スター選手を排出しているし、サッカーもテニスも世界レベルに迫った。まさか、のオペラの世界でも地殻変動が起きるだろう。ジャパン・アーツの創業者中藤泰雄は音楽畑の人ではなかった。支店勤務の銀行員だったのだ。そこから日本初のテレビ・ニュース通信社、日本電波ニュースに転職し、社内にクラシック音楽のマネジメント会社を立ち上げたのが始まりだ。「まだ、たまたま日本にいらっしゃるようですので打診してみます」経済界に身を置かれる読者諸兄、もっと劇場に足を運ぼう。普段使わない脳の部分に刺激を受けて、明日のビジネスにも役立つ。舞台では大男の印象があったが、普通に長身だった。オペラ歌手というのは太った大男というイメージで、それもあってか舞台上では大きく見えたが、東京ですれ違えば(カッコいい青年だな)と思うだけで、相手が花の都ウィーンでオペラ歌手をやっているとは誰も気付かないだろう。私が慣れ親しんだドイツ語以外の言語のオペラの準備は時間がかかりますね。特に難しいのは、モーツァルトやロッシーニなどのオペラ作品のセッコ・レチタティーヴォです。歌うというより話すスタイルに近いので、自然に表現できるまでに時間がかかります。こうして自分は歌が上手いと知るようになりましたが、すぐには歌を始めませんでした。しかし心のどこかで、困ったときには自分には歌があるという確信が持てました。私が歌の道に進もうと決心したのは高校三年生の春です。ちょうど進路に迷っていた時でした。君津高校の音楽担当の星野行江先生が、試験で演奏した私の歌を大変評価してくださり、大学で勉強することを勧めてくださいました。― フォルクスオーパーという歌劇場との契約は得難いものですね。衝撃を受けた。恐らくそれは、そこがウィーンではなくて、他ならぬ東京だったからだ。ブレゲンツには、フォルクスオーパーから有給休暇の許可を得て客演していた形になります。フォルクスオーパーでお給料を頂きつつ、客演先のブレゲンツでも多くの出演料を得ることができるのですから、経済的には非常に助かりました。この日のパンフレットを見ると、平野和はジャパン・アーツに所属しているという。というのは、ドイツ語に慣れるまでは、声楽のレッスンやドイツ語の発音のレッスンなど、マンツーマンで行われる授業を中心受講し、自分のペースで長期的に勉強を進めて行く狙いがあったからです。入学して3年後の2003年に声楽学科を終了し、同年から同大学の修士課程であるリート・オラトリオ科、オペラ科へ入学しました。― 日本ではクラシック音楽で生活するのは容易ではないと耳にしますから、正しいアドバイスですね。フィギアスケートだと10代がピーク、サッカー選手の場合は20代、野球選手は30代くらいだと思いますが、バリトン歌手というのは何歳まで出来るのですか?湖上オペラでデビューした2015年に、「トゥーランドット」の舞台を18公演務めました。翌年には、「トゥーランドット」の出演に加え、祝祭劇場で上演されたイタリア人作曲家フランコ・ファッチョの歌劇「アムレット」へも出演しました。金勘定は出来ても音楽ビジネスは未経験の中藤は「音楽は人間が生きていくのになくてはならないもの」という信念でビジネスをスタートさせたが、やがて、スメタナ・カルテットとの交流を通じて成功した事業部を独立させて「ジャパン・アーツ」となった。2012年に中藤が会長職にあった時、平成24年度の文化庁長官表彰を当時の近藤誠一長官より授与されている。しかし夢の湖上オペラには、それから9年を経た2015年の「トゥーランドット」でデビューすることができました。きっかけは、2015/16年に上演された湖上オペラ「トゥーランドット」の演出を手がけたマルコ・アルトゥーロ・マレッリが、キャスティング会議の際に、私をマンダリンの役に推薦してくださったからです。劇場や音楽祭で役を獲得するには、オーディションで自分をアピールして、何十人もいる候補者の中から勝ち上がるのが常です。しかしこの時は、演出家の鶴の一声で、湖上オペラという夢の舞台への出演がかないました。あとは歌曲などの繊細な表現を求められるジャンルを演奏することを私は心がけています。― 先日のウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラとの共演、素晴らしかったです。ご本人的にはどうだったのですか?自分にとっての打開策の一つは、来シーズンにロール・デビューする、『魔笛』のザラストロ役を成功させることです。この役をレパートリーに出来れば他の劇場での出演のチャンスはぐっと広がります。そして客演の積み重ねで、後々ワーグナー作品を歌うチャンスも巡ってくるはずと信じています。時は、2019年1月9日水曜日夜、初台の東京オペラシティーコンサートホール。指揮をしていたのは白髪に小柄で陽気なペーター・グートだ。― 素敵な先生ですね。自分の教え子が本場で歌っている姿には感動されたことでしょう。平野さんの高校生の頃はTRFやミスチルが全盛期ではないですか?大学院在学中は、学内の教授以外にも、オランダ人のリリックソプラノ歌手でリート歌手として一世を風靡したエリー・アーメリング、トーマス・ハンプソンや藤村実穂子などの伴奏者としても有名なドイツ人ピアニスト、ヴォルフラム・リーガー、ロベルト・ホルの伴奏者を長年務めたオランダ人ピアニストで、作曲家としても名高いドルフ・ヤンセンなど、一流プレイヤーたちのマスターコースを受講する機会に恵まれました。そこで私は合唱部に加わり、かなり目覚ましい活躍をし、顧問の先生からも大変感謝され、このまま歌を続けるべきだと勧められました。この管弦楽団の創立者の一人で音楽監督を務め、ヨハン・シュトラウス2世の没後百年の1999年の壮大なガラ・コンサートの指揮をした人である。ニューイヤー・コンサートでは何度も来日している。ヴァイオリンを弾きながら右手の弓で絶妙に指揮を執る。そんなペーター・グートのドイツ語の通訳をしたのも、また平野だった。© 2020 経済界ウェブ All rights reserved.そして石井先生の働きかけで、来年8月に君津市民文化ホール開場30周年の記念企画として、同ホールに凱旋し、リサイタルを開催することが内定しました。本当に不思議なご縁です。そしてウィーンのフォルクスオーパーが休みで平野和が来日する時には是非、その歌声と華のある姿を堪能して欲しい。この時点まで私は平野がオーストリア人なのかハーフなのか判断がつかなかったのだが、彼の日本語には訛りがなかった。― 日本大学芸術学部音楽学科を首席で卒業されたと資料にありますが。さらにその公演の成功を経て、2017/18年には湖上オペラの「カルメン」にも出演させていただきました。足掛け4年ブレゲンツではお世話になりましたが、どの年も素晴らしい思い出に溢れた夏になりました。また、オペラ解釈をドイツ人のオペラ演出家、ミヒャエル・テンメに習いました。彼は昨年のマツ、兵庫県立芸術劇場のオペラ公演「魔弾の射手」で演出を担当したことでも有名です。マレッリ氏とは、私のデビューとなった2008年のグラーツ歌劇場公演『魔弾の射手』、フォルクスオーパーで初めて題名役を歌った2012年の『フィガロの結婚』と、私のキャリアの節目節目で素晴らしい出会いをし、良き道に導いてくれる師匠のような存在です。もちろん、オーディションは私のようなランクの歌手には絶対条件で必要とされますし、エージェントのコネも必要です。そして、先ほどのザラストロのお話に関わることですが、まずはフォルクスオーパーという劇場でこの重要な役をやったという実績が必要とされます。そして公演を記録した録画、録音を添付資料として、各劇場に売り込みをすることも必要でしょう。もちろん、ウィーンに旅行して平野和のパフォーマンスに触れるには、こちらのスケジュールを参照されたい:また、オペラ解釈をドイツ人のミヒャエル・テンメに習いました。彼は昨年の夏、兵庫県立芸術劇場のオペラ公演「魔弾の射手」で、演出を担当したことでも有名です。そのために呼吸法の先生から日々のトレーニングのプログラムをもらって実践しています。呼吸法のトレーニングはストレッチに近い運動が多いですね。あとは良く食べ良く寝ることです。私の楽器はまだ発展途上です。今、ようやくスタート地点に立ったという感じです。ラトビア人のアネッテ・リーピナという美貌のソプラノ歌手に寄り添って歌うその姿に、私は当初(この堂々とした体躯のバリトン歌手は、いったい、どこの国の人だろう?)とまで考えたものだ。「フィガロの結婚」や「コシ・ファン・トゥッテ」などのオーソドックスなレパートリーから、ストラヴィンスキー作曲の歌劇『夜鳴き鶯』のような、上演機会の稀な作品まで、色々と演じさせていただきました。― 初舞台の新国立劇場からウィーンには距離と飛躍がありますが。経緯を教えてください。フォルクスオーパーでは、2012年の新演出版「フィガロの結婚」のタイトルロールを始め、様々な素晴らしい役、舞台を経験することができました。現在在籍12シーズン目に差し掛かりましたが、これまで400公演以上の舞台に出演しました。音楽の都と称されるウィーンの聴衆の前で、常に演奏できるのはやはり幸せなことです。私は野球部に所属していたのですが、3年の夏の大会で早々と敗退し引退しました。そんな折、音楽の先生で合唱部の顧問だった方から、合唱部の地区予選に助っ人として参加して欲しいと直々にお願いされました。石井先生とはその後、Facebookで繋がり、2013年の新国立劇場のアイーダの公演にお越し頂き再会する事が出来ました。2017年にはブレゲンツに音楽祭にもいらしてくださり、湖上オペラの『カルメン』も観劇されました。ジャパン・アーツの創始者が言ったように、「音楽は人間が生きていくのになくてはならないもの」である。それが、台所でお皿を洗いながら聞くポップスであれ、カラオケの演歌であれ、オペラのアリアであれ、テクノであれ。ジャズであれ。その時の音楽の先生が、後に紆余曲折あり千葉県議員に転身し、現在は君津市長になりました。名前は石井宏子先生です。当時は旧姓の中島先生でした。さて、そのジャパン・アーツの知り合いを通して、平野和へのインタビューを申し込んだ。― ブレゲンツ音楽祭には大昔に関わった事がありますので雰囲気はわかります。どのような演目でしたか?平野和は日本に住んでいなかった。通常はオーストリアの首都ウィーンに住んでいるという。日本にはいわば公演旅行で短期滞在中の身であった。平野和のことは知らなかった。初めて見たのはウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラの公演の中でだった。― ご自分の身体を楽器と見做されるのですね。楽器はどうやって育てていくのですか?エジプトの高僧ザラストロになった平野和が「この神聖な殿堂の中」を歌う姿は容易に想像できる。バリトンだから、声は通るし、ユーモアを交えた的確な日本語訳だった。これだけの才能を今までテレビの例えば『題名のない音楽会』でも目にしなかったのは何故だろうかと不思議だった。平野和には華がある。立派な日本語を話せるし、恐らく、ドイツ語も立派なものだろう。円熟の70歳まではまだ30年もある。発展途上の「楽器」もどんどん完成に向かうだろう。バイロイト音楽祭も、ブレゲンツ音楽祭と同様に、フォルクスオーパーが休みに入る7月と8月にバイロイト祝祭劇場で行われる。平野和がその舞台に立つ日も近いだろう。(筆者注:フォルクスオパーはウィーンのリンク大通りの外、ギュルテルにあり、1898年の開場だ。「トスカ」も「サロメ」もウィーンでの初演はこの劇場だった。二作とも現在の国立歌劇場シュターツオーパー検閲官に上演拒否された作品だった。シェーン・ベルクの一幕オペラ「幸運な手」は1924年が初演で、この劇場だった。由緒正しき劇場だ)私は大学生になって上京したかったので、あまりガリガリ受験勉強しなくても入学できる可能性の高い音楽の道は魅力でした。その高校の音楽の星野先生とは現在でも交流が続いており、突然、ウィーンでの公演にいらしてくださったこともありました。