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列車に乗るから味わえる、特別な体験を、多くの人に知ってほしい jrグループ協力のもと、駅舎・車両・車窓の風景や鉄道旅行の魅力を伝えます トレたびで、気になる鉄道旅行を探してみませんか? 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。 ( 2016年2月 ) 独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。( 2016年2月 ) 「馬鹿馬鹿しいことを真剣に」をモットーに、毎日わいわいがやがや楽しくやっています。「親不知(おやしらず)」は現在の新潟県糸魚川市青海から市振(いちぶり)まで約15㎞におよぶ海岸線の総称。北アルプスの断崖と日本海の荒波が迫るなかを旅人は命を賭けて通過しました。波打ち際を駆け抜けるときは、親は子を忘れ、子は親を顧みる余裕がなかったからその名がついたという説も。昭和末までは歩くこともできましたが現在は通行不可。断崖の上の遊歩道を歩くことで古人の苦難を少しだけ追体験できます。静岡県静岡市清水にある三保半島。現在は半島の東岸に広がる松原を「三保松原」と呼びますが、少なくとも江戸時代までは半島全体が松林に覆われていたことが記録されています。三保半島は駿河湾に突き出ているため、かつては三保まで足を運ばなくても対岸の港や江尻の宿場からも松林を眺めることができたとか。まさに日本の景観美と呼びたいこの風景、東海道を往来する旅人たちの心をどれだけ癒してきたことでしょう。広島県福山市と尾道市に挟まれた沼隈半島の南端、阿伏莵岬の先端に建つ磐台寺(ばんだいじ)観音堂、通称阿伏莵観音(あぶとかんのん)。一帯は古くから尾道と鞆の浦を結ぶ要衝(ようしょう)であり、航海安全を祈願して十一面観音石仏が祀られたのが西暦986年ごろ。現在の観音堂は元亀(げんき)年間(1570〜73)、毛利輝元(もうりてるもと)が再建したものに補修を重ねています。本堂から眺める瀬戸内の海の輝きはまばゆく、聖地にふさわしい絶景が広がります。「猿橋(さるはし)」の由来は、猿が体を支え合って谷を渡った様子に着想を得た百済人(くだらびと)がこの橋をつくった伝説から。山梨県大月市にある猿橋は国内で現存する唯一の刎橋(はねばし)として知られ、江戸中期には現在と同様のつくりで存在していたとか。谷深い桂川に架けるために両岸から刎木(はねぎ)を突き出し、それを重ねて橋桁(はしげた)を渡すという複雑な構造は、人人の知恵の賜物。戦国時代には交通の要であったこの橋を焼き落として敵の侵入を防いだこともあったそうですが、度々架け替えられ、今日の猿橋は嘉永4(1851)年の出来形帳(完成図)を元に昭和59(1984)年に復元されました。「田毎(たごと)の月」とは敷き詰められた狭い田んぼのそれぞれに月が映るさまを言い、古くから和歌に詠まれてきた言葉です。長野県千曲(ちくま)市八幡地区、通称姨捨(おばすて)地区にある冠着山(かむりきやま)の斜面には大小、ふぞろいな形の田んぼが並び、「田毎の月」を楽しめる場所としてその名が知られています。この地に棚田が始まったのは室町時代からで、江戸期にさらに開発が進んだといい、松尾芭蕉や小林一茶など多くの俳人がこの地を訪れました。人々の手で大切に守られてきた棚田は今もその美しい姿を残しています。江戸の浮世絵師・歌川広重は、日本で初めて風景画に叙情をもたらしたといわれています。今回は、広重によって描かれた日本各地の景勝地に焦点をあて、江戸時代の人々が関心を寄せた「日本の原風景」を美術鑑賞。天才浮世絵師を魅了したと思われる、ここぞという絶景を7か所に絞ってご案内。旅の目的地探しにもお役立てください!鹿児島県の最西南端に位置する坊津(ぼうのつ)。東シナ海に面したこの港は中国や琉球との交易の拠点として栄えました。現存する数千点におよぶ文化遺産や民俗資料からも唐の港と呼ばれた往時がしのばれます。港の入り口に位置する網代浦(あじろうら)には一風変わった岩礁が点在し、双剣石(そうけんせき)もそのひとつです。坊津は現在、国指定の名勝に指定されていますが、遥か昔から人々の配慮によりこの景観は手つかずで残されてきたとか。双剣石は自然敬拝の象徴としてこの地に存在しているのです。 「自分の好きな人と毎日おいしいごはんを食べる。それだけ叶っていれば、どんな人生だって幸せでしょう」「心はあたたかく、つかの間の楽しい時間でした。どんなに大変なときでも美味しいご飯を前にすると人は幸せになるんだなあと思いましたね。今でも、あの食卓の風景が忘れられません。僕にとっての原体験かもしれません」あの震災の夜に家族で囲んだ食卓がそれを証明していたのだ。だから彼はこれからも愛する人のために料理を作る。山と海と人をつなぐ旅はつづく。「僕の店では、国産の食材メインに扱っていたんです。だけど震災による原発事故の影響で、食材が思うように集まらなくなってしまいました。しばらくして仕入れはできるようになったけど、安全性を担保できない。お客さんからお金をいただくことにためらいを感じました。そこで、メニューに値付けをせず、食べてくれたお客様が“お気持ち分”を支払うドネーション方式にしたんです。店の入り口に壺を置いて、帰り際にお金を入れてもらいました。いわゆる投げ銭ってやつですね」ルアさんは、コンセプト設計から店舗の内装、食器選び、メニュー作り、原価やコストの試算などなど、開店のための段取りをひと通り経験することになる。その一方で、彼が暮らす東京のシェアコミュニティでも、“家族”のためのごはんを作っている。ときに仕事や遊び仲間たちに“まかない”を作ってあげることも。そこにはいつも人の笑顔が溢れている。撮影後は、地元の人たちとテーブルを囲み食事を楽しんだという。その土地の素晴らしさを、食を通じて現地の人たちに伝えていく活動だ。ソウダルアさん、そこにたどり着くまで、いったいどんな人生を旅してきたの?22歳のときに上京したルアさん。東京では、飲食店の立ち上げを25店舗ほど手がける。東京の飲食業界ではカフェブームからケータリングの波がやってきていた。家族は大阪に引っ越すことになった。中3の半端な時期に転校したこともあり学校自体に馴染めなかった。受験が遠のいていくのがわかった。「震災で環境がガラッと変わってしまって、人生狂ったなと思った」と、ルアさんは当時の心境をふり返る。「お店だと、料理にそこまでサプライズが求められないんですよね。ある程度、メニューが決まっていてお客さんもどんなものが食べたいかを想像してやってくる。あのとき食べたアレがまた食べたいとリピートするお客さんもいるでしょう。でも旬の食材ってそのときにしか味わえないんです」ソウダルアさんは大阪で生まれ、兵庫県で育った。父はコピーライター、母はスタイリスト。両親ともに仕事が忙しく家族と過ごす時間は少なかったが、それほど寂しさは感じなかったという。5歳のとき料理に目覚めたルアさんは、10歳になる頃にはスパイスを調合してカレーを作るほど、料理に夢中になっていた。鬱屈していた高校時代、親とぶつかることも増えていった。「家を出て行け」といわれたらすぐにでも出ていけるように、バイト代を貯めて、転がり込める先輩の家を確保した。案の定「出て行け」といわれたときは、しめしめと荷物をまとめて家を出たという。高校2年のときだった。旅を通して、ルアさんはフードロス問題にも関心を抱くようになった。ソウダルアさんは店を持たずに、いろいろな場所に出向き料理をふるまう「出張料理人」だ。高校に進学したものの、バーや飲食店でアルバイトをしたり、ファッションモデルの仕事をして小金を稼ぐなどした。「震災以降ちょっとした反抗期が続いて、先輩たちとつるんで夜遊びしていました。クラブであばれたりする、まぁよくいる都会のヤンキーでしたね(笑)」「旅先で手に入れたその土地の作物は、おのずと旬の食材なので本当に美味しんです。都心のスーパーに売っているものは、育てやすく生産量が確保できて費用対効果がいい。ある意味しくみ化されているんですよね。だけどその土地で採れる野菜は、香りも全然違います。島に行くと、妙に野草に詳しいおじさんとかがいたり、おもしろい出会いもある」共働きの両親と暮らすいわゆる“カギっ子”だった男の子。家でひとり過ごす間、キッチンの棚に並ぶ調味料やスパイスに手を伸ばした。ごはんの味付けをあれこれ試すうち、気づけば料理が「日常」になっていた。あまり知られていないけれど実は食べられるお花や実がたくさんある。看板もメニューもない。その日仕入れた旬の食材を使って料理をふるまう。ルアさんの店は、人が人を呼び、いつしか人気店になっていた。14歳のときだった。自宅のある兵庫県西宮市は震度7を記録した。ライフラインがすべて止まった真冬の暗い部屋。この先どうなるのか不安が募った。「冷蔵庫の食べ物が傷むから」と、母がカセットコンロを出してきた。食卓にロウソクを灯し、肉や魚、野菜、いろいろな具材がたっぷり入った鍋を家族3人で囲んだ。「エースばかりを集めたら、みんなの個性や主張が強すぎて、メンバー同士がぶつかり合うようになっていったんです。いつも誰かが誰かの愚痴をこぼしていて、店の雰囲気も楽しくなくて。いやいや、スター選手が集まれば、ぶつかり合いながらも互いを高め合って、最強のチームになるって信じていたんですよ。スラムダンクみたいに、最後はハイタッチちゃうんかと(笑)」ケータリングから出張料理人になったと思いきや、26歳になったルアさんは自分の店を開店することに。「店はぜったいに“人”が大事」と考え、メンバー集めに奮闘する。センスが良く話がおもしろいバーテンダー、人気店で一番腕のいいシェフ、イケメン料理人などなど。華やかでエース級の料理人たちを時間をかけて口説いた。店をたたんだルアさんに「料理を作ってほしい」と声がかかるようになった。音楽・アート系のイベントや企業のレセプションパーティなどだ。貝の煮汁をジュレにすれば、海の美味しさを丸ごと味わってもらえる。(取材・文:川崎 絵美、写真:川しま ゆうこ、編集:錦光山 雅子)そして22歳のときに上京したルアさん。東京では、飲食店の立ち上げを25店舗ほど手がける。東京の飲食業界ではカフェブームからケータリングの波がやってきていた。Torus by ABEJAとは:AIの社会実装を手がけるスタートアップABEJAのオウンドメディア。「テクノロジー化する時代に、あえて人を見る」をコンセプトに、さまざまな人の物語を紡いでいきます。甚大な被害をもたらした大震災。中学校は数カ月間休校になった。避難所に家族で身を寄せ春まで暮らした。水汲みを手伝ったり、ガレキを撤去したりして過ごした。捨てられてしまう笹の葉っぱで、魚を包み焼きにすると料理の香り付けになって美味しい。ルアさんは「どんな食材にも美味しくなる権利とチャンスがある」と語る。しかし、安全な食材を一定量確保できる見通しが立たなかった。ルアさんは仕方なく、3年ほど続けたお店をたたむ決断をした。ひとり、またひとりとスタッフは去り、気づけばたったひとりで店を切り盛りするようになった。「とはいえ心配して連絡してくるだろうと思ったんです。でも1週間たっても2週間たっても親からは連絡なくて。2年以上も音沙汰なしでした。すごい親だな(笑)。それから家には帰っていません」「カフェ飯に自分自身も少し飽きていたから、ケータリングに興味をもってケータリング会社をつくったんです。パーティやイベントに呼ばれ、ハレの日の料理をふるまう。とてもワクワクしました。良い食材も使えるし、ピンチョスめっちゃおしゃれやん!って(笑)」そんななか、東日本大震災が起きた。またしても、大きな災害によって彼の人生に転機が訪れる。ちょうど20歳になったある日、スタイリストからフードコーディネーターに転身したという母から連絡があった。大阪の商業施設でレストランやバーのメニューづくりを手がけることになり、プロデューサーとして息子であるルアさんを指名したのだ。2011年の東日本大震災。またしても、大きな災害によって彼の人生に転機が訪れる。「店の立ち上げはバタバタと大変でしたが、苦労よりも達成感があり楽しかったです。飲食店でのバイト経験が大いに役立ちました。ちょうどカフェブームが始まった時期だったこともあり、その後も大阪で数店舗のプロデュースを手がけました」店でふるまう料理と、出先でふるまう料理。後者の方が性に合うと感じた。日本各地、その土地で採れた食材のみをあつかい、歴史と風土が交差する料理を和紙の上で表現している。それは、まるでアート。彼のインスタレーション映像から伝わるだろうか。
列車に乗るから味わえる、特別な体験を、多くの人に知ってほしい jrグループ協力のもと、駅舎・車両・車窓の風景や鉄道旅行の魅力を伝えます トレたびで、気になる鉄道旅行を探してみませんか? 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。 ( 2016年2月 ) 独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。( 2016年2月 ) 「馬鹿馬鹿しいことを真剣に」をモットーに、毎日わいわいがやがや楽しくやっています。「親不知(おやしらず)」は現在の新潟県糸魚川市青海から市振(いちぶり)まで約15㎞におよぶ海岸線の総称。北アルプスの断崖と日本海の荒波が迫るなかを旅人は命を賭けて通過しました。波打ち際を駆け抜けるときは、親は子を忘れ、子は親を顧みる余裕がなかったからその名がついたという説も。昭和末までは歩くこともできましたが現在は通行不可。断崖の上の遊歩道を歩くことで古人の苦難を少しだけ追体験できます。静岡県静岡市清水にある三保半島。現在は半島の東岸に広がる松原を「三保松原」と呼びますが、少なくとも江戸時代までは半島全体が松林に覆われていたことが記録されています。三保半島は駿河湾に突き出ているため、かつては三保まで足を運ばなくても対岸の港や江尻の宿場からも松林を眺めることができたとか。まさに日本の景観美と呼びたいこの風景、東海道を往来する旅人たちの心をどれだけ癒してきたことでしょう。広島県福山市と尾道市に挟まれた沼隈半島の南端、阿伏莵岬の先端に建つ磐台寺(ばんだいじ)観音堂、通称阿伏莵観音(あぶとかんのん)。一帯は古くから尾道と鞆の浦を結ぶ要衝(ようしょう)であり、航海安全を祈願して十一面観音石仏が祀られたのが西暦986年ごろ。現在の観音堂は元亀(げんき)年間(1570〜73)、毛利輝元(もうりてるもと)が再建したものに補修を重ねています。本堂から眺める瀬戸内の海の輝きはまばゆく、聖地にふさわしい絶景が広がります。「猿橋(さるはし)」の由来は、猿が体を支え合って谷を渡った様子に着想を得た百済人(くだらびと)がこの橋をつくった伝説から。山梨県大月市にある猿橋は国内で現存する唯一の刎橋(はねばし)として知られ、江戸中期には現在と同様のつくりで存在していたとか。谷深い桂川に架けるために両岸から刎木(はねぎ)を突き出し、それを重ねて橋桁(はしげた)を渡すという複雑な構造は、人人の知恵の賜物。戦国時代には交通の要であったこの橋を焼き落として敵の侵入を防いだこともあったそうですが、度々架け替えられ、今日の猿橋は嘉永4(1851)年の出来形帳(完成図)を元に昭和59(1984)年に復元されました。「田毎(たごと)の月」とは敷き詰められた狭い田んぼのそれぞれに月が映るさまを言い、古くから和歌に詠まれてきた言葉です。長野県千曲(ちくま)市八幡地区、通称姨捨(おばすて)地区にある冠着山(かむりきやま)の斜面には大小、ふぞろいな形の田んぼが並び、「田毎の月」を楽しめる場所としてその名が知られています。この地に棚田が始まったのは室町時代からで、江戸期にさらに開発が進んだといい、松尾芭蕉や小林一茶など多くの俳人がこの地を訪れました。人々の手で大切に守られてきた棚田は今もその美しい姿を残しています。江戸の浮世絵師・歌川広重は、日本で初めて風景画に叙情をもたらしたといわれています。今回は、広重によって描かれた日本各地の景勝地に焦点をあて、江戸時代の人々が関心を寄せた「日本の原風景」を美術鑑賞。天才浮世絵師を魅了したと思われる、ここぞという絶景を7か所に絞ってご案内。旅の目的地探しにもお役立てください!鹿児島県の最西南端に位置する坊津(ぼうのつ)。東シナ海に面したこの港は中国や琉球との交易の拠点として栄えました。現存する数千点におよぶ文化遺産や民俗資料からも唐の港と呼ばれた往時がしのばれます。港の入り口に位置する網代浦(あじろうら)には一風変わった岩礁が点在し、双剣石(そうけんせき)もそのひとつです。坊津は現在、国指定の名勝に指定されていますが、遥か昔から人々の配慮によりこの景観は手つかずで残されてきたとか。双剣石は自然敬拝の象徴としてこの地に存在しているのです。 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絵美、写真:川しま ゆうこ、編集:錦光山 雅子)そして22歳のときに上京したルアさん。東京では、飲食店の立ち上げを25店舗ほど手がける。東京の飲食業界ではカフェブームからケータリングの波がやってきていた。Torus by ABEJAとは:AIの社会実装を手がけるスタートアップABEJAのオウンドメディア。「テクノロジー化する時代に、あえて人を見る」をコンセプトに、さまざまな人の物語を紡いでいきます。甚大な被害をもたらした大震災。中学校は数カ月間休校になった。避難所に家族で身を寄せ春まで暮らした。水汲みを手伝ったり、ガレキを撤去したりして過ごした。捨てられてしまう笹の葉っぱで、魚を包み焼きにすると料理の香り付けになって美味しい。ルアさんは「どんな食材にも美味しくなる権利とチャンスがある」と語る。しかし、安全な食材を一定量確保できる見通しが立たなかった。ルアさんは仕方なく、3年ほど続けたお店をたたむ決断をした。ひとり、またひとりとスタッフは去り、気づけばたったひとりで店を切り盛りするようになった。「とはいえ心配して連絡してくるだろうと思ったんです。でも1週間たっても2週間たっても親からは連絡なくて。2年以上も音沙汰なしでした。すごい親だな(笑)。それから家には帰っていません」「カフェ飯に自分自身も少し飽きていたから、ケータリングに興味をもってケータリング会社をつくったんです。パーティやイベントに呼ばれ、ハレの日の料理をふるまう。とてもワクワクしました。良い食材も使えるし、ピンチョスめっちゃおしゃれやん!って(笑)」そんななか、東日本大震災が起きた。またしても、大きな災害によって彼の人生に転機が訪れる。ちょうど20歳になったある日、スタイリストからフードコーディネーターに転身したという母から連絡があった。大阪の商業施設でレストランやバーのメニューづくりを手がけることになり、プロデューサーとして息子であるルアさんを指名したのだ。2011年の東日本大震災。またしても、大きな災害によって彼の人生に転機が訪れる。「店の立ち上げはバタバタと大変でしたが、苦労よりも達成感があり楽しかったです。飲食店でのバイト経験が大いに役立ちました。ちょうどカフェブームが始まった時期だったこともあり、その後も大阪で数店舗のプロデュースを手がけました」店でふるまう料理と、出先でふるまう料理。後者の方が性に合うと感じた。日本各地、その土地で採れた食材のみをあつかい、歴史と風土が交差する料理を和紙の上で表現している。それは、まるでアート。彼のインスタレーション映像から伝わるだろうか。