武蔵・下総国境について 今日もテレビでスカイツリーの高さ634Mについて、武蔵に因むといっているのを見ましたが、墨田区は武蔵になるのでしょうか。 昔は隅田川を渡ると下総国と聞いたこともあります。
隅田川は、武蔵国と下総国の境界と位置付けられ、左岸は「川向う」と呼ばれていた。「川向う」には寺社や美しい自然が連続し、景勝地として人々に親しまれていた。 松伏、田島、大川戸、上赤岩、下赤岩の5ヶ村は武蔵国松伏領に属し、金杉村、築比地村、魚沼村の3ヶ村は下総国庄内領に属しました。 江戸時代には、江戸川の開鑿や改修、新田開発の推進などが行われ、徐々に現在の松伏町の基礎が形成されていきます。
かつては武蔵国足立郡と下総国葛飾郡の境界でもありました。現在はその流れを後から出来た荒川放水路に寸断されながらも流れています。中川という名称は後に隅田川と江戸川の間を流れていることから名付けられました この「古隅田川」も、武蔵国太田庄花積郷(埼玉郡)と下総国下河辺庄新方(葛飾郡)との境界でした(永徳3年,1383の文書)。 従って、中世には、粕壁も「葛飾」だったわけです。 q 武蔵・下総国境について.
国(藩)が違うということは、文化も違います。これもよく言われていることですが、 下総国(旧庄和町)は香取神社の勢力圏、武蔵国(春日部市)は氷川神社の勢力圏です。 もちろん、国境エリアです。ふたつの文化が混在しているでしょうが。 立川博章『江戸の町並み景観復元図 御府内上野・浅草周辺』 内外地図 平成16年神社や寺社は、縁日や御開帳などの催しにより、多くの人々が集う都市の盛り場であった。周辺には、大衆娯楽が集積し、聖俗入り混じった盛り場となった。明暦の大火(1657)は、江戸の中心地であった隅田川西岸を焼き尽くした。以降、隅田川東岸(川向う)は防災計画中心の碁盤目状に開発され、川には避難用の橋が架けられるようになった。また、大火の犠牲者の鎮魂のため、両国に「回向院」が建立された。隅田川は、武蔵国と下総国の境界と位置付けられ、左岸は「川向う」と呼ばれていた。「川向う」には寺社や美しい自然が連続し、景勝地として人々に親しまれていた。かつて江戸幕府の米蔵であった蔵前の掘割は、工業発展・経済成長に伴って埋め立てられ、現在は暗渠化されている。現蔵前駅界隈は公地であった旧米蔵の名残を残し、公共用地として利用され続けている。東京スカイツリー建設に伴い、隅田川テラスの整備・北斎館の新設・各種イベントの開催等、隅田川再興の気運が高まりつつある。両国界隈には、多くの歴史遺産や緑地、東京都江戸東京博物館に代表される文化施設が点在している。また、東岸には「すみだマイスター」に代表される技術の高い町工場が集積・点在している。回向院の建立・火除地の集積・避難ルートとしての両国橋の整備が複合した両国界隈は人々が集う都市広場となり、緑のネットワークを残しながら、聖俗入り混じった江戸随一の『表(盛り場)』となった。都が江戸へと移り変わるとともに、川は江戸の隆盛を象徴する重要な交通インフラとして整備されはじめた。文明開化に伴い、水運に代わる交通インフラが整備された。中でも橋は公共交通の重要なルートとなり、鉄橋へと架け替えられた。空き地が多く残っていた隅田川東岸は工場の林立する工業地として利用されたが、東京大空襲で灰燼に帰すこととなった。江戸時代初期、隅田川は武蔵国(都)と下総国(田舎)を分ける境界として認識されていた。隅田川を挟んだ東岸は「川向う」と呼ばれ、手つかずの自然と寺社の点在する未開発の地域であった。また、桜の咲き乱れる春には多くの人が観光に訪れる地であった。COPYRIGHT 2011 AXS SATOW INC., ALL RIGHT RESERVED.隅田川沿いは、現代においても隆盛の歴史を伝える遺産や公共施設が残存し、にぎわいのポテンシャルを秘めた場所となっている。また、東京の新たなランドマークとして注目を集める東京スカイツリーの建設に伴い、隅田川再興の気運が高まりつつある。現蔵前駅界隈は公共施設が集積し、隅田川西岸の中でも特異な場所となっている。明暦の大火や享保の大飢饉など多くの災害に見舞われた江戸では、死者を弔う行事の勃興や慰霊施設の建立が相次ぎ、それと共に多数の火除地(防災広場)や橋が整備された。明治期以降、工業利用が進みつつあった隅田川は、関東大震災(1923)、東京大空襲(1945)という二度の大きな破壊を受けた。復興の際は強固な安全が最優先され、都市と川のつながりは薄くなった。さらに高度経済成長期には都市のにぎわいが他の地域に移り、川は都市の『裏』となった。飢饉の犠牲者の鎮魂のために催された隅田川の花火や、神社の資金集めを目的に催された勧進相撲が人気を博した。東京オリンピック(1964)に象徴される高度経済成長に伴い、川は工業排水のための水路へと変貌した。一方、より安全と機能性を求める都市インフラはかつての運河などを暗渠に変えた。川は汚染と埋設により都市から隔離されてしまった。東京大空襲の被害写真 『東京大空襲の記録』東京都慰霊協会 平成22年昭和42年当時の隅田川 『図で見る環境白書』環境庁 昭和57年江戸以前、本所地域一帯は中洲状の湿地帯であった。利根川東遷事業(1590)による内側廻しの水運ルートの確立により、川は重要な輸送手段となった。「川向う」は多くの緑地を残しながらも区画整理が行われ、都市化が進んだ。回向院を中心とした両国界隈や火除地として設けられた両国橋橋詰の両国広小路には、見世物小屋や出店などが集い、多くの人々が訪れた。 −140− 古社叢の「聖地」の構造(1)─東関東の場合 この四つの国の一の宮は、安房国では安房郡の安房神社(千葉県館山市)、上総国では埴 はにう 生郡 の玉 たまさき 前神社(千葉県長生郡)、下総国では香取郡の香取神宮(千葉県佐原市)、常陸国では鹿島郡
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