津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日(1864年 12月31日) - 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。 日本における女子教育の先駆者と評価される。 女子英學塾(のちの津田塾大学)創立者。. 最後にお見せするのは再び地下の世界です。ただしこちらは地下室とは異なり、部屋ではありません。狭くて長い、通路の世界です。トランクなどが発見された当時の写真。津田梅子の遺品の保管場所だった時代も。H401へは、3Fのこの階段から上がります。階段右奥の部屋がplum garden編集部室です。 さて、次はホールの4階へ行ってみましょう。4階といっても、そこにあるのはH401教室のみなので、普段利用する方は少ないかもしれません。この教室の醍醐味はなんといっても窓から覗く景色。ハーツホン・ホールに続くロータリーと青々と生い茂る木々の調和がなんとも美しいです。ハーツホン・ホールではそれぞれの教室に番号が付けられています。例えば1階の教室にはH101、H102…、2階はH201…、3階はH301…というように、各階の数字が百の位に当てられるのです。このように考えると、最も早い教室番号はH101でしょうか。いいえ、実は「H001」なる部屋が存在するのです。その場所はハーツホン・ホール0階、ではなく、なんと地下室にあります。 体を縮めて扉をくぐると、突然目の間に大きな空間が現れます。暗闇に点々と灯る明かりや細かなコンクリートの欠片だらけの足元、ひんやりとした空気、ほこりっぽい匂いが、まるでどこかの遺跡にいるような気分を誘います。足元には無数の配管が通っており、この中にはまだ石炭や重油、ガスで暖をとっていた時代にそれぞれ使われていた管も当時のまま残されています。Copyright © Tsuda University.
■津田梅子と彼女の日記について On Umeko Tsuda and her diaryまさか津田梅子の英語を、キーン氏がわざわざ日本語に訳す理由や必要があったとは思えない。だから彼女の日記は、おそらく金関氏が原文から直に和訳したのだろう。津田梅子が1889年からの二度めのアメリカ留学の際に学んだ大学。ペンシルベニア州のフィラデルフィア郊外にある、全米有数の少人数制の私立女子大学。米国で女性に対して修士号や博士号を授与した最初の大学でもある。数々の日本人の書いた日記について、ドナルド・キーン氏はかつて2冊の本を著した。One might easily have expected and asked for ten or fifteen years more of life, but when one thinks of the young men going to war, noble, brilliant young men, the flower of their country, and of the awful suffering and death to which they go, and it seems so cruel and useless, then why, because to me, my own life has not seemed to be for selfish or useless purposes, should I expect, ask or pray for long life?梅子は滞米11年の後、帰国。完璧な英語を操った。むしろ驚くべきなのは、彼女が日本語を忘れなかったことのほうである。帰国から7年後、再び渡米したときには、東部のブリン・マー大学で生物学を専攻した。聖公会(アングリカン/英国教会系)に属する、熱心なキリスト教徒でもあった。わたくしは男だけれども、ある外部機関が運営する研修のため、この大学で、ひと夏すごした。キャンパスは英国のオックスフォードを忠実に模倣した感じで、とても美しかった。■英語原文 The original text in English■日本語訳 Translation into Japanese日記は英語でつけていた。そのほうが当人にとっては日本語で書くより楽だったらしい。したがって、下に引用する彼女の日記は、英語のほうが原文であって、日本語のほうは、それを後で他の人が翻訳したものである。津田むめ(後に改名して梅子)。1864-1929(元治元年~昭和4年)。元祖「帰国子女」。津田塾の創設者。1871(明治4)年、8歳でアメリカへ留学。父親は1866(慶応2)年に、福沢諭吉らと共に渡米し、6か月滞在した。いわば、知米派日本人の草分け的存在。当時としては異例なほど熱心な教育パパでもあった。今私は、あともう十年、あるいは十五年の余命を願っても、決して欲ばりとは言えないであろう。しかし戦場に行く若者たち、まことにこの国の花である、気高く、聡明な若者たちのこと、彼らがそれに向かって直進して行く恐ろしい苦しみと死のことを思い、その残酷さと無益さとに思いを致す時、私自身の人生が、いくら一見利己的で、無益な目的のためではなかったからといって、一体どうしてこの私に、もっと長い余生を期待し、願い、祈ることなぞ出来るだろうか?著名な元教官には、第28代合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン、卒業生にはアカデミー賞を4回受賞した俳優のキャサリン・ヘップバーンなどがいる。日本語が達者なキーン先生だが、原文は英語でお書きになった。それを1986年10月から朝日新聞に連載していた当時、金関寿夫氏が毎日、日本語に訳していた。両氏の連携プレイの詳細は存じあげない。けれども、津田梅子日記の稿は、異例だったはずだ。なぜならここでは、日本人が英語で書いた日記を題材にして、アメリカ人が英語で書いた原稿を、日本人の翻訳家が日本語に訳したものを、日本の日本語の新聞が掲載していたのだ。アメリカの映画やTVドラマや小説には、「ブリン・マー在学」あるいは「ブリン・マー卒」という設定の女性が、ときどき出てくる。この大学名が、人々の脳裏でいわゆる名門の「お嬢さま大学」的イメージと結びついている、ひとつの証左といえるかと思う。もっとも、日本の平均的お嬢さま大学よりは、骨太でたくましい感じだが。Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them. Weatherhill 1991 1st ed. 初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。 所蔵館40館. Amazon配送商品ならThe Attic Letters: Ume Tsuda's Correspondence to Her American Motherが通常配送無料。更にAmazonならポイント還元本が多数。Tsuda, Umeko, Furuki, Yoshiko, Althaus, Mary作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。 [津田梅子, 熊本謙二郎著] ... Weatherhill 1991 1st ed.
その手紙は、津田塾大学の教職員によって整理され、一部は『津田梅子書簡集-"The Attic Letters"』という書籍となって出版されました。トランクなどの一部は図書館2階の梅子資料室にも展示されているので、ぜひ足を運んでみてはいかかがでしょうか。
『The Attic Letters: Ume Tsuda's Correspondence to Her American Mother』Weatherhill:Yoshiko Furuki, et al.(eds. 4.
)(1991年)ISBN 978-0834802445 『津田梅子』朝日新聞社:大庭みな子 著(1990年)ISBN 978-4022561534 『津田梅子文書』改訂版:津田塾大学 編(1984年)
All rights reserved. 現在、H001をはじめとする地下室は、主に倉庫や電気室として使われています。しかし、かつての様子は今なお各所に見て取ることができます。例えば黒い煤の残るレンガ造りの空洞。これは、かつて「蒸気暖房」と呼ばれる暖房方法が用いられていた時代のボイラー室の煙突です。ハーツホン・ホールの竣工当時からおよそ50年間にわたり使用されており、暖房用に燃料を燃やして作った蒸気をホール内の配管に巡らせることで各部屋を温めていました。1980年代初め、大学ホール地下に旧エネルギーセンターができて、その役目を終えましたが、ガスや電気のエアコンが主流になった今、こうして昔の姿を見ることができるのも歴史ある建物ゆえかもしれません。まずはホールの北東へ。少し突き出た外壁の小さな窓から覗く階段、気になった人も多いでしょう。実はここ、非常階段なのです。出入り口は2・3階教室と1階の外側にあり、他の場所にある階段よりも幅の狭い階段が螺旋状に続いています。ほとんど使われていないため、壁は真っ白。窓から差し込む光が壁に反射して神秘的な雰囲気をつくり出しています。 梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族・下総佐倉藩出身)・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれた[注 1]。父・仙は幕臣であったため、幕府崩とともに職を失ったが、明治2年(1869年)に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移った。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。
edited by Yoshiko Furuki ... [et al.] The attic letters : Ume Tsuda's correspondence to her American mother.