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1184年2月、一ノ谷の戦いで大敗を喫した平家は、屋島へと避難します。 一方の源氏軍は源義経の活躍などで一ノ谷の戦いで大勝利したわけですが、その勢いで屋島に攻め入ることはできませんでした。屋島の位置は今の高松市、四国です。屋島に攻め入るには、船とそれを動かす水夫が必要でした。ところが、源氏軍はこれらを持ち合わせてはいません。 ボロボロになった平家軍が目と鼻の先にいるにも関わらず、平家軍の圧倒 … 1147年には、源義朝とその正妻の由良御前の間で男子が生まれます。これが後の源頼朝になります。その頃、源頼朝は富士川にて平家軍に勝利した直後でした。この富士川にて頼朝と義経は感動の初対面を果たします。・・・が、これは大失敗。全然兵が集まりませんでした。これは、源頼朝に不満を持つ者が想定以上に少なかったことを意味し、源頼朝の力が盤石だったことを示しています。源義経はひとまず西国へ逃げ、体制を立て直すことを決めます。そんな藤原秀衡は、源氏の高貴な血統を利用して奥州統治をより一層強固なものにしようと考えました。秀衡にとって、義経は政治の道具でもあったわけです。壇ノ浦の戦いは水上戦。海を熟知する平家軍が圧倒的有利でしたが、敵の水夫を狙って敵船を操縦不能にさせるなど、当時としては奇想天外な策を用いて平家軍を大破。そして、迫り来る敵の猛将を見るや八つの船をピョンピョン飛んで一瞬のうちに消え去ります。(この神がかり的身のこなしは「八艘飛び伝説」と言ったりする)この時、主人の義経を守ろうと武蔵坊弁慶は敵を次々と討ちますが、しかしながら奇襲を受けた義経側の兵力はなく、多勢に無勢。矢を受け刃に切られた武蔵坊弁慶はこの地で命を落とします。いくつかハイライトで紹介しましょう。各戦いの詳しい話はそれぞれ別記事で解説しておりますので、気になる方は合わせてご覧ください。源義朝の詳しいお話は以下の記事に譲るとして、ここではサラッと紹介します。源義経はすごい素直なんだけど、一方でちょっと天然ボケが入っている人柄だったのだろうと思います。ここでまたまた源義経は、奇策に出ます。1184年、屋島を背後から奇襲したのです。意味不明なところから攻撃を仕掛けられた平家軍は少数の義経軍にすら勝つことができず敗走。頼朝と義経の2人が源義朝の血を受け継いだ時点で、兄弟が争う運命は既に決まっていたのだと思います。「運命」で二人の関係をまとめるのもどうかと思いましたが、そんな感じで記事を終わらせておこうと思います。藤原秀衡は以下の記事でも紹介していますが、非常に頭が切れて決断力もあるかなり有能な奥州の統治者でした。さらに、源義経は人に好かれる何かを持っていたと言われています。源平合戦時、正規軍に混じっていた義経軍の兵たちの中には武士だけではなく、実に多様な人間がいたと言われています。義経の生涯の盟友の武蔵坊弁慶も破戒僧ですからね。兄の頼朝にとってはこの人望の強さは脅威だったはずです。1183年、福原付近に構える平家軍と源氏軍が対峙します。平家は地の利を活かし防衛線を構えていましたが源義経がそれをぶち壊します。さらに、源義経の下には頼朝に不満を持つ源行家なども集まり、反頼朝の狼煙が上がろうとしていました。1189年、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡は、父秀衡の「義経を主人として奥州を守れ」という遺言を無視し、義経邸を襲撃。さてさて、武蔵坊弁慶という生涯の盟友と出会った源義経は藤原秀衡のいる奥州へと向かいます。幼少期の複雑な生い立ち、源平合戦の活き活きした様子、そしてその後の人生の急転落。その波乱万丈で悲哀に満ちた源義経の生涯は非常に多くの人を魅了し続けています。真偽不明な多くの逸話が残されているのはその証拠です。聖徳太子並みかそれ以上の人気です。平清盛は常盤御前の美しさやその覚悟に感服。さらに、そもそも平清盛が「どうせ義朝の嫡男だった源頼朝も助けちゃったんだし、その他の子供の命まで奪う理由はないかな!」と思っていたのもあって義経は奇跡的に一命を取り留めます。平清盛は、夫の義朝を死に追いやった人物です。そんな常盤御前を自分の女にするとか平清盛さん、鬼畜すぎじゃないですかね・・・。この記事を読んでいただければ、源義経のことはだいたいわかるはず!源義経入門のきっかけにしていただければ嬉しいです。こうして荒くれ者だった武蔵坊弁慶は、義経が源氏の御曹司であることを知り、義経に心酔。その後、最後の最後まで側近中の側近として大活躍します。常盤御前は絶世の美女でしたから、こんな風に言われて平清盛の妾になったなんて言われることもあります。(事実かどうかはわかりません。)以仁王の挙兵自体はすぐに鎮圧されますが、これに呼応し、各地の源氏たちが反乱を起こしました。有名な源平合戦の始まりです。源義経の異母兄である源頼朝も流刑地の伊豆から挙兵を決意。平家の政治に不満を持つ北条時政らと共に平家軍と戦います。源平合戦は源の勝利に終わり、源義経はその活躍から一挙として有名人となり、平安京でも名を馳せるようになります。一ノ谷の戦いで破れた平家軍は、四国の屋島に避難します。水軍を持たない源氏は四国に容易に攻め込めず、戦況はこう着状態に陥ります。奥州は当時、唯一頼朝の勢力が全く及んでいない地域でした。政治のプロである源頼朝がこんな絶好の機会に奥州に手を出さないわけがありません。頼朝のハッタリに対して藤原泰衡は葛藤します。後三年の役により源義家が凋落して以降、源氏は長い間、関東地方で所領などを巡って一族同士での争いを続けていました。乳飲み子の源義経を抱えた常盤御前は、子どもたちを守ろうと平安京を抜け身を隠します。ところが、常盤御前の母が平清盛に捕まってしまいます。平清盛は平治の乱の勝者だした。幼少期の源義経は、物心つかないうちから激動の生涯を歩み続けることになります。木曽義仲もそうですが、当時の有名人たちの人生は本当に凄まじいです・・・。源平合戦が多くの人を魅了するのも納得です。保元の乱から少し経過した1159年、源義朝と常盤御前の間に子が生まれました。これがこの記事の主役の源義経です。そんな天然ボケで人に好かれる人柄も、源義経が悲劇のヒーローとして長い間人々に親しまれていた理由かもしれません。後白河法皇は、「頼朝出陣!」の報告を受け、ビビって頼朝にこんな旨の書状を送ります。ところが、源義経の華やかな経歴もここまで。壇ノ浦の戦い後の源義経は、それまで戦果がまるで嘘であるかのように崖から転げ落ちる悲痛の人生を送ることになります。源頼朝は藤原秀衡を優秀な人物と警戒していました。しかし、その息子の泰衡はそれほどの人物ではないと見て、源頼朝は執拗に藤原泰衡に圧力を掛けます。常盤御前は母を助けんと平安京に戻り、平清盛に助命を願い出ます。この時点で義経の命運も平清盛の手の内にあります。常盤御前は息子の死を覚悟しながらも、必死の抵抗を試みます。武蔵坊弁慶の必死の抵抗も虚しく、追い詰められた源義経は自害。こうして、源平合戦の英雄である源義経は人生の幕を降ろします。源頼朝は父の義朝が関東で一族争いに明け暮れていたことなどもあって、このような問題にはかなり敏感だったのです。当時、常盤御前は一条長成という貴族の下で暮らしており、一条氏の勧めででわざわざ遠い奥州まで向かったと言われています。こう言い残して、源義経は腰越を去ります。これを知った源頼朝も同じく激怒。恩賞として与えた所領を全て没収してしまいます。頼朝が義経を挑発してわざと怒らせ、手のひらで転がしている感も否めませんが、この腰越状の一件により源頼朝と源義経の対立は決定的となります。源義経は乳飲み子の頃に父を失っているので、自分の父が関東を束ねる源氏の棟梁だったことをしばらくは知らなかったはずです。しかしながら、義経は清和源氏の高貴な血を引く御曹司です。色々な噂があり、自分の父が関東一帯を支配していた源義朝であることをどこかで知ったのでしょう。源義経は、同じく源頼朝を恐れていた後白河法皇に接近します。後白河法皇は、源平合戦中の寿永二年宣旨などの交渉を通じて、じわりじわりと頼朝に権力を奪われ始めていて、頼朝のことを強く警戒していました。こーゆー奇抜な発想って考えすぎたり知識がありすぎると逆に躊躇してしまう気がするんですよね。だから義経って、自分に素直で無邪気な人間だったと思うし、その思考回路も頭が良いというより天然・天才肌というかそんな感じだったんじゃないかと思います。あと、義経を自害に追い込んだ源頼朝が悪く言われることも多いですが、源頼朝も二度と一族同士の紛争を起こすまいと確固たる信念を持って動いており、源頼朝を悪く言うのは違います。(頼朝が個人的に好きなのでフォローしとく!)源頼朝のこの待機地は、1180年に頼朝と義経が感動の再会を果たした場所でした。同じ地にいながら、わずか5年でお互いに殺し合うとは、夢にも思わなかったことでしょう。夢うつつと言う言葉がありますが、案外、現実と夢の違いというのは曖昧なものなのかもしれません。後白河法皇は次は「義経追討命令」を発令し、源義経は一変して朝敵となり、命を狙われることになります。戦いが終わると義経について、悪い噂?が次々と頼朝の耳に舞い込んできます。義経の能力や人望を恐れる源頼朝はこの事態を重く受け止め、自ら出陣し、鎌倉から平安京へと向かいます。源頼朝は駿河国で待機し、先鋒隊を平安京に送り様子を見ます。平治の乱で敗戦の将となった源義朝。その余波は義朝の息子たちにも及びます。当時10代前半だった源頼朝は奇跡的に処刑を免れ、伊豆に流刑。義経の奇襲で平家軍は大混乱。源氏の本部隊も到着し、平家軍をフルボッコにすることに成功します。義経の動きを知った常盤御前の心は複雑だったことでしょう。なんせ、争い事に巻き込まれないよう義経を鞍馬寺に預けたわけですからね。最終的には義経の気持ちを尊重した形です。ところが、その藤原秀衡が1187年10月に亡くなり、息子の藤原泰衡が奥州を支配するようになると、次第に不穏な空気が流れ始めます。兄の元に馳せ参じた源義経は、武将として源平合戦の戦局を大きく左右するほどの大活躍を成し遂げます。源義経は朝廷から役職を貰っていたので、義経にも「鎌倉に入るな!」と頼朝は言っています。鎌倉幕府樹立を目指す源頼朝にとって、朝廷と密かに関係を持つ者は危険人物だったのです。頼みの源義経は西国に向かっていたため不在であり、後白河法皇はなすすべも無く源頼朝の要求を飲み込みます。無計画な後白河法皇の頼朝追討令が、逆に頼朝に利用されてしまった形です。武勇に秀でていた源義朝はその勝者となり、源氏の棟梁として関東地方を束ねます。これが1150年ごろの話。関東地方の動乱が収まると、源義朝は関東を息子の源義平(みなもとのよしひら)に任せ、自らは朝廷への進出を目指します。源頼朝は代官として北条時政に千騎の兵を与え入京させ、後白河法皇との交渉に入ります。源平合戦最後の戦い壇ノ浦の戦い。ここでも義経軍は主力として大活躍します。武蔵坊弁慶は多くの傷を負い命絶えてもなお、持っていた薙刀を杖代わりに仁王立ちのまま立ち続け、敵兵たちを恐れさせたと言われています。 頼朝は「天の時、地の利、人の和」全てを手にした男で1人で1000人を相手にできるような強さであったということからこう言われています。『キングダム』には李信をはじめ、多くの実在した将軍をモデルとしたキャラクターが登場します。既に多くのキャラクターが死亡しその出番を終えていますが、秦軍最...今回は鎌倉、室町、江戸と続いた武家政権の系統の開祖となった源頼朝と政権樹立までの葛藤について解説します。しかし中には朝廷を蔑ろにした人物として否定的な意見も出ていたようで、時代の先駆者ゆえの二面的評価も垣間見えます。しかし、清盛の継母・池禅尼によって助けられ伊豆に流罪となります。妻の政子とは当時の慣例を破った恋愛結婚であり、政子は許嫁がいたにも関わらず頼朝を一途に愛しついに舅・北条時政を納得させ味方につけてしまいました。頼朝が愛妾を抱えていた原因は、こうした部分から垣間見える政子と頼朝の政治上の価値観の違いからなのかもしれません。源頼朝は1144年、河内源氏の棟梁である源義朝の3男として生まれました。その後は親族や朝廷らの反逆を恐れて義経、奥州藤原氏、範頼ら不安分子を全て滅ぼし政権を安定させ、1192年朝廷から征夷大将軍に任じられて政権を開くことを許可されます。政権を打ち建てた人物として立派なはずの頼朝なのですが、彼個人の人物像を伝えるようなエピソードは『吾妻鏡』を中心に誉めそやすものが多く、いまいちリアリティに欠けています。日本の歴史上で幕府を開いた源頼朝・足利尊氏・徳川家康というのはある意味で特別な存在として位置づけられています。しかし、頼朝・家康と比べて尊氏の存在という...その後は中央を支配した源義仲を討ち、後白河法皇から鎌倉政権を正当なものだと認められて平家討伐を請け負い、1185年壇ノ浦の戦いでついに平家を滅ぼします。藤原道長は長年の贅沢暮らしで糖尿病を発症し飲水が絶えなかったと言われていますが、頼朝の場合は糖尿病の症状である視力低下がみられています。正確には、頼朝は落馬して17日後に亡くなっているので、このタイムラグで脳内出血などの別の症状が出て突然死となッタノかもしれません?こうした武家政権のアイデンティティーを築いた頼朝は、後の武士から非常に評価されており、特に徳川家康は『吾妻鏡』を愛読書として読んでいたとされています。それに実は頼朝、平家擁する安徳天皇が持っている三種の神器を確保することを絶対条件として命じていましたが、義経は勇敢であるゆえに八艘飛びで平氏を追い込んでしまい安徳天皇はご存知の通り海の底の都へ・・・。激烈な政子の性格とは違い、亀の前はとても柔和な性格だったので頼朝にとっても心休まる存在だったのでしょう。しかし平清盛との対比として頼朝は、一族でも手加減しない冷徹なリアリストだったと言われています。こうして頼朝は義経を謀反人と決めつけ、ついに討伐命令を朝廷に発行させ殺害に踏み切るのです。鎌倉末期~南北朝時代初期に活躍した武将・楠木正成。現在、皇居のある江戸城跡には楠木正成の立派な銅像が建てられています。 楠木正...その他にも恨みを買って暗殺された、執権北条氏の権力志向を受けて用済みになったので殺された等の俗説もありますが、これらは結果を知っている後世の人間だから言えることなので、あまり信ぴょう性はないように思います。そのため、頼朝の存在は草創期らしい一種の個人的カリスマに頼ったものでした。そのため、頼朝はあくまで「将軍による武家政権」の開祖であるという見方をした方がより正確だと思われます。征夷大将軍が武家政権のトップと同義語になっていくのは源氏将軍が絶えて執権の時代になってからですが、頼朝が築こうとした武家棟梁のアイデンティティーは室町・江戸と受け継がれていき、後の政権の参考になったといってもいいでしょう。当初は寡兵であったことから苦戦しますが、鎌倉を平定し関東武士を味方につけたことで基盤を築き、清盛の死と相まって徐々に形勢を逆転させていきます。頼朝にとってはこういう機会を積極的に与え後継者争いを防ぐ効果と、頼家の前途を明るくする意味もあったのですが、政子はいまいち頼家が好きじゃなかったのか?そして、平治の乱で父が平清盛に敗れると、頼朝も嫡子として死刑が確定するはずでした。日本史上の美少年といったら「天草四郎」か「森蘭丸」か、といわれるほど広く世に名を知られた織田信長の小姓・森蘭丸。アニメや小説なんかにもよく登場する人物で...しかし「飲水の病」は他に本当に川で溺れてしまい水を飲みすぎた溺死であるという説もあります。具体的には、頼朝は朝廷からもらった官職を根拠に、武士達に守護職や地頭といった様々な官職、領地を与えて頼朝に従うようにしました。さらに義経はかねてから東国武士とはそりが合わない代わりに朝廷と関係がいい西国武士とは馬が合い、東国武士の立場を脅かすほどの活躍を見せてしまいます。ではここで問題ですが、朝廷からもらった官職で最も重要なのは何なのでしょう?千利休というと「わび茶」を完成した人物として有名ですが、文化人であるにも関わらず武士のように切腹で最期を遂げています。茶聖とまで呼ばれた千利休がなぜ切腹...武功はあれど関東武士から白い目で見られている義経を手なずけることで、頼朝に対する対抗馬としてあてがおうとしていたのだとされています。味方でありながらずっと違反ばかりする叔父の行家討伐に義経も参加するように命令しますが、義経も既に頼朝に対抗する意思を持っていたので、病のふりをして断ります。それは頼朝も敵が平氏の他に同じ源氏であったこと、後述するように弟の範頼、義経でも疑わしきは滅ぼすという精神からきているのでしょう。『キングダム』が連載を開始してから、急激に取り上げられるようになったのが主人公・信のモデルとなった将軍・李信です。 『キングダム』の主...奥羽の大名・伊達政宗はよく信長・秀吉・家康と同世代であれば天下を狙えるほどの器であったと称されています。 その評判に違わず、政宗は奥羽...実際のところは征夷大将軍はさほど重要ではなかったようですが、源氏の祖先が代々名乗ってきた「大将軍」という肩書は武家の棟梁を名乗る上では重要なイデオロギーの問題だったとされています。蜂須賀小六はまたの名を正勝と呼ばれる羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎)の与力。直接的には織田信長の家臣でありながら、羽柴秀吉の下に派遣されている家臣といった感...その他の官職は土地の支配権や官職の任命権を委譲するものでありました。頼朝存命時、「鎌倉殿」及びその政治機構はあくまで関東武士団の政治機構であったため、決して日本全国に支配が行き届いていたわけではありませんでした。冷徹な政治家である頼朝とは違い、武芸や戦略に優れ熱い心を持った武将の義経は今でも人気を集めてやみません。義経と頼朝は黄瀬川で涙の対面を果たして以来、頼朝は本国にて武士の統率と領国経営、義経は前線にて木曾義仲や平家討伐にて貢献します。これは頼家を頼朝の跡取りであると神から認めてもらい、世間にも公に公開するいい機会だったのです。武家政権を開いたと聞くと、何だか初めから強力な力を持っていたかのような印象を受けますが、実はそんなことはありません。頼朝は挙兵した段階から徐々にこうした官職を加えられて他の追随を許さない勢力になっていきました。後白河法皇は腹黒さで知られている人物で、あわよくば頼朝の権威を削ごうとも考えていたとされています。しかし落馬ごときで人が死ぬかというのが普通の人の考えですよね?頼朝が鎌倉幕府として残した功績は、実はその根拠を朝廷から受けた官位に依拠しています。頼朝は征夷大将軍となる以前に一族の結束を中心に独立意識の強かった関東武士団を領地の保障と武家の棟梁という平氏政権とは違う形でまとめ政権基盤としたのです。武田信玄が『日本無双の名大将』と評価した上杉謙信。信玄はライバルであった謙信にどこか信頼も置いていたようで、自分が亡き後は上杉謙信を頼るようにと、跡を継...3男ではありましたが兄2人の母が卑賤の生まれであったことから嫡子として扱われ、若い頃から義朝の戦に同行しています。浅葱色(あさぎいろ)の羽織を着て、京都の治安維持に努めた新撰組。池田屋事件で長州の吉田稔麿や肥後の宮部鼎蔵らの計画を阻止し、京都の町を救ったことで大きく...頼朝は親族を散々殺しているためそれに悩まされ、挙句病んだとする説もありますが、現段階ではこれだと断定するのは困難なようです。「武家の棟梁なんだからそれくらいは当たり前だ」と言って頼家を追い返してしまいました。「一騎当千」という言葉があるのですが、この言葉は本来頼朝を指す言葉でした。政治の実権が天皇から武家に移っていくのは厳密には平清盛らの平氏政権からですが、日本は武家が支配するのだという概念を全国に普遍化させていったのは鎌倉幕府から。流罪先では親の反対を押し切ってきた北条政子と結婚し、やがて北条家等の多くの武士の協力を得て平氏政権に対し挙兵します。そのため、鎌倉幕府は決して朝廷の権威から独立した別個の政治機構というわけではなかったのです。しかし政子は亀の前の他にも何人かいた頼朝の側室を全て追い払ってしまったとされています。他には征夷大将軍となった翌年、頼朝はセレモニーの一環として富士の鷹狩りを行います。「判官びいき」という言葉は、きっと多くの人が知っていると思います。義経はそれに平時忠の娘を妻としてもらっており、武家による新政権の流れをぶった切るこの動きに頼朝は激怒です。事によっては平氏を滅ぼすことすら望んでいなかったとされる頼朝ですが、大事な大事な駒を戦に夢中で回収し損ねた事にさらに激怒。一ノ谷の奇襲、それに壇ノ浦の八艘飛びは義経個人の功績であると言われていますが、義経はカリスマゆえに純真無垢で頼朝が考えていた政治構想を逸脱する行為が頻繁に見られました。どこでもいますよね、有能ゆえに純真で規律とか全く度外視な人。義経も生まれる時代を間違えたのでしょうか?ところが、頼朝は同じく伊豆にいた頃から亀の前という愛妾を囲い政子に内緒で通うようになります。他には『猪隈関白記』では「飲水の病」と書いており、この解釈も様々あります。この2人がどうして争うことになったのかも詳しくみていきましょう。
1184年2月、一ノ谷の戦いで大敗を喫した平家は、屋島へと避難します。 一方の源氏軍は源義経の活躍などで一ノ谷の戦いで大勝利したわけですが、その勢いで屋島に攻め入ることはできませんでした。屋島の位置は今の高松市、四国です。屋島に攻め入るには、船とそれを動かす水夫が必要でした。ところが、源氏軍はこれらを持ち合わせてはいません。 ボロボロになった平家軍が目と鼻の先にいるにも関わらず、平家軍の圧倒 … 1147年には、源義朝とその正妻の由良御前の間で男子が生まれます。これが後の源頼朝になります。その頃、源頼朝は富士川にて平家軍に勝利した直後でした。この富士川にて頼朝と義経は感動の初対面を果たします。・・・が、これは大失敗。全然兵が集まりませんでした。これは、源頼朝に不満を持つ者が想定以上に少なかったことを意味し、源頼朝の力が盤石だったことを示しています。源義経はひとまず西国へ逃げ、体制を立て直すことを決めます。そんな藤原秀衡は、源氏の高貴な血統を利用して奥州統治をより一層強固なものにしようと考えました。秀衡にとって、義経は政治の道具でもあったわけです。壇ノ浦の戦いは水上戦。海を熟知する平家軍が圧倒的有利でしたが、敵の水夫を狙って敵船を操縦不能にさせるなど、当時としては奇想天外な策を用いて平家軍を大破。そして、迫り来る敵の猛将を見るや八つの船をピョンピョン飛んで一瞬のうちに消え去ります。(この神がかり的身のこなしは「八艘飛び伝説」と言ったりする)この時、主人の義経を守ろうと武蔵坊弁慶は敵を次々と討ちますが、しかしながら奇襲を受けた義経側の兵力はなく、多勢に無勢。矢を受け刃に切られた武蔵坊弁慶はこの地で命を落とします。いくつかハイライトで紹介しましょう。各戦いの詳しい話はそれぞれ別記事で解説しておりますので、気になる方は合わせてご覧ください。源義朝の詳しいお話は以下の記事に譲るとして、ここではサラッと紹介します。源義経はすごい素直なんだけど、一方でちょっと天然ボケが入っている人柄だったのだろうと思います。ここでまたまた源義経は、奇策に出ます。1184年、屋島を背後から奇襲したのです。意味不明なところから攻撃を仕掛けられた平家軍は少数の義経軍にすら勝つことができず敗走。頼朝と義経の2人が源義朝の血を受け継いだ時点で、兄弟が争う運命は既に決まっていたのだと思います。「運命」で二人の関係をまとめるのもどうかと思いましたが、そんな感じで記事を終わらせておこうと思います。藤原秀衡は以下の記事でも紹介していますが、非常に頭が切れて決断力もあるかなり有能な奥州の統治者でした。さらに、源義経は人に好かれる何かを持っていたと言われています。源平合戦時、正規軍に混じっていた義経軍の兵たちの中には武士だけではなく、実に多様な人間がいたと言われています。義経の生涯の盟友の武蔵坊弁慶も破戒僧ですからね。兄の頼朝にとってはこの人望の強さは脅威だったはずです。1183年、福原付近に構える平家軍と源氏軍が対峙します。平家は地の利を活かし防衛線を構えていましたが源義経がそれをぶち壊します。さらに、源義経の下には頼朝に不満を持つ源行家なども集まり、反頼朝の狼煙が上がろうとしていました。1189年、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡は、父秀衡の「義経を主人として奥州を守れ」という遺言を無視し、義経邸を襲撃。さてさて、武蔵坊弁慶という生涯の盟友と出会った源義経は藤原秀衡のいる奥州へと向かいます。幼少期の複雑な生い立ち、源平合戦の活き活きした様子、そしてその後の人生の急転落。その波乱万丈で悲哀に満ちた源義経の生涯は非常に多くの人を魅了し続けています。真偽不明な多くの逸話が残されているのはその証拠です。聖徳太子並みかそれ以上の人気です。平清盛は常盤御前の美しさやその覚悟に感服。さらに、そもそも平清盛が「どうせ義朝の嫡男だった源頼朝も助けちゃったんだし、その他の子供の命まで奪う理由はないかな!」と思っていたのもあって義経は奇跡的に一命を取り留めます。平清盛は、夫の義朝を死に追いやった人物です。そんな常盤御前を自分の女にするとか平清盛さん、鬼畜すぎじゃないですかね・・・。この記事を読んでいただければ、源義経のことはだいたいわかるはず!源義経入門のきっかけにしていただければ嬉しいです。こうして荒くれ者だった武蔵坊弁慶は、義経が源氏の御曹司であることを知り、義経に心酔。その後、最後の最後まで側近中の側近として大活躍します。常盤御前は絶世の美女でしたから、こんな風に言われて平清盛の妾になったなんて言われることもあります。(事実かどうかはわかりません。)以仁王の挙兵自体はすぐに鎮圧されますが、これに呼応し、各地の源氏たちが反乱を起こしました。有名な源平合戦の始まりです。源義経の異母兄である源頼朝も流刑地の伊豆から挙兵を決意。平家の政治に不満を持つ北条時政らと共に平家軍と戦います。源平合戦は源の勝利に終わり、源義経はその活躍から一挙として有名人となり、平安京でも名を馳せるようになります。一ノ谷の戦いで破れた平家軍は、四国の屋島に避難します。水軍を持たない源氏は四国に容易に攻め込めず、戦況はこう着状態に陥ります。奥州は当時、唯一頼朝の勢力が全く及んでいない地域でした。政治のプロである源頼朝がこんな絶好の機会に奥州に手を出さないわけがありません。頼朝のハッタリに対して藤原泰衡は葛藤します。後三年の役により源義家が凋落して以降、源氏は長い間、関東地方で所領などを巡って一族同士での争いを続けていました。乳飲み子の源義経を抱えた常盤御前は、子どもたちを守ろうと平安京を抜け身を隠します。ところが、常盤御前の母が平清盛に捕まってしまいます。平清盛は平治の乱の勝者だした。幼少期の源義経は、物心つかないうちから激動の生涯を歩み続けることになります。木曽義仲もそうですが、当時の有名人たちの人生は本当に凄まじいです・・・。源平合戦が多くの人を魅了するのも納得です。保元の乱から少し経過した1159年、源義朝と常盤御前の間に子が生まれました。これがこの記事の主役の源義経です。そんな天然ボケで人に好かれる人柄も、源義経が悲劇のヒーローとして長い間人々に親しまれていた理由かもしれません。後白河法皇は、「頼朝出陣!」の報告を受け、ビビって頼朝にこんな旨の書状を送ります。ところが、源義経の華やかな経歴もここまで。壇ノ浦の戦い後の源義経は、それまで戦果がまるで嘘であるかのように崖から転げ落ちる悲痛の人生を送ることになります。源頼朝は藤原秀衡を優秀な人物と警戒していました。しかし、その息子の泰衡はそれほどの人物ではないと見て、源頼朝は執拗に藤原泰衡に圧力を掛けます。常盤御前は母を助けんと平安京に戻り、平清盛に助命を願い出ます。この時点で義経の命運も平清盛の手の内にあります。常盤御前は息子の死を覚悟しながらも、必死の抵抗を試みます。武蔵坊弁慶の必死の抵抗も虚しく、追い詰められた源義経は自害。こうして、源平合戦の英雄である源義経は人生の幕を降ろします。源頼朝は父の義朝が関東で一族争いに明け暮れていたことなどもあって、このような問題にはかなり敏感だったのです。当時、常盤御前は一条長成という貴族の下で暮らしており、一条氏の勧めででわざわざ遠い奥州まで向かったと言われています。こう言い残して、源義経は腰越を去ります。これを知った源頼朝も同じく激怒。恩賞として与えた所領を全て没収してしまいます。頼朝が義経を挑発してわざと怒らせ、手のひらで転がしている感も否めませんが、この腰越状の一件により源頼朝と源義経の対立は決定的となります。源義経は乳飲み子の頃に父を失っているので、自分の父が関東を束ねる源氏の棟梁だったことをしばらくは知らなかったはずです。しかしながら、義経は清和源氏の高貴な血を引く御曹司です。色々な噂があり、自分の父が関東一帯を支配していた源義朝であることをどこかで知ったのでしょう。源義経は、同じく源頼朝を恐れていた後白河法皇に接近します。後白河法皇は、源平合戦中の寿永二年宣旨などの交渉を通じて、じわりじわりと頼朝に権力を奪われ始めていて、頼朝のことを強く警戒していました。こーゆー奇抜な発想って考えすぎたり知識がありすぎると逆に躊躇してしまう気がするんですよね。だから義経って、自分に素直で無邪気な人間だったと思うし、その思考回路も頭が良いというより天然・天才肌というかそんな感じだったんじゃないかと思います。あと、義経を自害に追い込んだ源頼朝が悪く言われることも多いですが、源頼朝も二度と一族同士の紛争を起こすまいと確固たる信念を持って動いており、源頼朝を悪く言うのは違います。(頼朝が個人的に好きなのでフォローしとく!)源頼朝のこの待機地は、1180年に頼朝と義経が感動の再会を果たした場所でした。同じ地にいながら、わずか5年でお互いに殺し合うとは、夢にも思わなかったことでしょう。夢うつつと言う言葉がありますが、案外、現実と夢の違いというのは曖昧なものなのかもしれません。後白河法皇は次は「義経追討命令」を発令し、源義経は一変して朝敵となり、命を狙われることになります。戦いが終わると義経について、悪い噂?が次々と頼朝の耳に舞い込んできます。義経の能力や人望を恐れる源頼朝はこの事態を重く受け止め、自ら出陣し、鎌倉から平安京へと向かいます。源頼朝は駿河国で待機し、先鋒隊を平安京に送り様子を見ます。平治の乱で敗戦の将となった源義朝。その余波は義朝の息子たちにも及びます。当時10代前半だった源頼朝は奇跡的に処刑を免れ、伊豆に流刑。義経の奇襲で平家軍は大混乱。源氏の本部隊も到着し、平家軍をフルボッコにすることに成功します。義経の動きを知った常盤御前の心は複雑だったことでしょう。なんせ、争い事に巻き込まれないよう義経を鞍馬寺に預けたわけですからね。最終的には義経の気持ちを尊重した形です。ところが、その藤原秀衡が1187年10月に亡くなり、息子の藤原泰衡が奥州を支配するようになると、次第に不穏な空気が流れ始めます。兄の元に馳せ参じた源義経は、武将として源平合戦の戦局を大きく左右するほどの大活躍を成し遂げます。源義経は朝廷から役職を貰っていたので、義経にも「鎌倉に入るな!」と頼朝は言っています。鎌倉幕府樹立を目指す源頼朝にとって、朝廷と密かに関係を持つ者は危険人物だったのです。頼みの源義経は西国に向かっていたため不在であり、後白河法皇はなすすべも無く源頼朝の要求を飲み込みます。無計画な後白河法皇の頼朝追討令が、逆に頼朝に利用されてしまった形です。武勇に秀でていた源義朝はその勝者となり、源氏の棟梁として関東地方を束ねます。これが1150年ごろの話。関東地方の動乱が収まると、源義朝は関東を息子の源義平(みなもとのよしひら)に任せ、自らは朝廷への進出を目指します。源頼朝は代官として北条時政に千騎の兵を与え入京させ、後白河法皇との交渉に入ります。源平合戦最後の戦い壇ノ浦の戦い。ここでも義経軍は主力として大活躍します。武蔵坊弁慶は多くの傷を負い命絶えてもなお、持っていた薙刀を杖代わりに仁王立ちのまま立ち続け、敵兵たちを恐れさせたと言われています。 頼朝は「天の時、地の利、人の和」全てを手にした男で1人で1000人を相手にできるような強さであったということからこう言われています。『キングダム』には李信をはじめ、多くの実在した将軍をモデルとしたキャラクターが登場します。既に多くのキャラクターが死亡しその出番を終えていますが、秦軍最...今回は鎌倉、室町、江戸と続いた武家政権の系統の開祖となった源頼朝と政権樹立までの葛藤について解説します。しかし中には朝廷を蔑ろにした人物として否定的な意見も出ていたようで、時代の先駆者ゆえの二面的評価も垣間見えます。しかし、清盛の継母・池禅尼によって助けられ伊豆に流罪となります。妻の政子とは当時の慣例を破った恋愛結婚であり、政子は許嫁がいたにも関わらず頼朝を一途に愛しついに舅・北条時政を納得させ味方につけてしまいました。頼朝が愛妾を抱えていた原因は、こうした部分から垣間見える政子と頼朝の政治上の価値観の違いからなのかもしれません。源頼朝は1144年、河内源氏の棟梁である源義朝の3男として生まれました。その後は親族や朝廷らの反逆を恐れて義経、奥州藤原氏、範頼ら不安分子を全て滅ぼし政権を安定させ、1192年朝廷から征夷大将軍に任じられて政権を開くことを許可されます。政権を打ち建てた人物として立派なはずの頼朝なのですが、彼個人の人物像を伝えるようなエピソードは『吾妻鏡』を中心に誉めそやすものが多く、いまいちリアリティに欠けています。日本の歴史上で幕府を開いた源頼朝・足利尊氏・徳川家康というのはある意味で特別な存在として位置づけられています。しかし、頼朝・家康と比べて尊氏の存在という...その後は中央を支配した源義仲を討ち、後白河法皇から鎌倉政権を正当なものだと認められて平家討伐を請け負い、1185年壇ノ浦の戦いでついに平家を滅ぼします。藤原道長は長年の贅沢暮らしで糖尿病を発症し飲水が絶えなかったと言われていますが、頼朝の場合は糖尿病の症状である視力低下がみられています。正確には、頼朝は落馬して17日後に亡くなっているので、このタイムラグで脳内出血などの別の症状が出て突然死となッタノかもしれません?こうした武家政権のアイデンティティーを築いた頼朝は、後の武士から非常に評価されており、特に徳川家康は『吾妻鏡』を愛読書として読んでいたとされています。それに実は頼朝、平家擁する安徳天皇が持っている三種の神器を確保することを絶対条件として命じていましたが、義経は勇敢であるゆえに八艘飛びで平氏を追い込んでしまい安徳天皇はご存知の通り海の底の都へ・・・。激烈な政子の性格とは違い、亀の前はとても柔和な性格だったので頼朝にとっても心休まる存在だったのでしょう。しかし平清盛との対比として頼朝は、一族でも手加減しない冷徹なリアリストだったと言われています。こうして頼朝は義経を謀反人と決めつけ、ついに討伐命令を朝廷に発行させ殺害に踏み切るのです。鎌倉末期~南北朝時代初期に活躍した武将・楠木正成。現在、皇居のある江戸城跡には楠木正成の立派な銅像が建てられています。 楠木正...その他にも恨みを買って暗殺された、執権北条氏の権力志向を受けて用済みになったので殺された等の俗説もありますが、これらは結果を知っている後世の人間だから言えることなので、あまり信ぴょう性はないように思います。そのため、頼朝の存在は草創期らしい一種の個人的カリスマに頼ったものでした。そのため、頼朝はあくまで「将軍による武家政権」の開祖であるという見方をした方がより正確だと思われます。征夷大将軍が武家政権のトップと同義語になっていくのは源氏将軍が絶えて執権の時代になってからですが、頼朝が築こうとした武家棟梁のアイデンティティーは室町・江戸と受け継がれていき、後の政権の参考になったといってもいいでしょう。当初は寡兵であったことから苦戦しますが、鎌倉を平定し関東武士を味方につけたことで基盤を築き、清盛の死と相まって徐々に形勢を逆転させていきます。頼朝にとってはこういう機会を積極的に与え後継者争いを防ぐ効果と、頼家の前途を明るくする意味もあったのですが、政子はいまいち頼家が好きじゃなかったのか?そして、平治の乱で父が平清盛に敗れると、頼朝も嫡子として死刑が確定するはずでした。日本史上の美少年といったら「天草四郎」か「森蘭丸」か、といわれるほど広く世に名を知られた織田信長の小姓・森蘭丸。アニメや小説なんかにもよく登場する人物で...しかし「飲水の病」は他に本当に川で溺れてしまい水を飲みすぎた溺死であるという説もあります。具体的には、頼朝は朝廷からもらった官職を根拠に、武士達に守護職や地頭といった様々な官職、領地を与えて頼朝に従うようにしました。さらに義経はかねてから東国武士とはそりが合わない代わりに朝廷と関係がいい西国武士とは馬が合い、東国武士の立場を脅かすほどの活躍を見せてしまいます。ではここで問題ですが、朝廷からもらった官職で最も重要なのは何なのでしょう?千利休というと「わび茶」を完成した人物として有名ですが、文化人であるにも関わらず武士のように切腹で最期を遂げています。茶聖とまで呼ばれた千利休がなぜ切腹...武功はあれど関東武士から白い目で見られている義経を手なずけることで、頼朝に対する対抗馬としてあてがおうとしていたのだとされています。味方でありながらずっと違反ばかりする叔父の行家討伐に義経も参加するように命令しますが、義経も既に頼朝に対抗する意思を持っていたので、病のふりをして断ります。それは頼朝も敵が平氏の他に同じ源氏であったこと、後述するように弟の範頼、義経でも疑わしきは滅ぼすという精神からきているのでしょう。『キングダム』が連載を開始してから、急激に取り上げられるようになったのが主人公・信のモデルとなった将軍・李信です。 『キングダム』の主...奥羽の大名・伊達政宗はよく信長・秀吉・家康と同世代であれば天下を狙えるほどの器であったと称されています。 その評判に違わず、政宗は奥羽...実際のところは征夷大将軍はさほど重要ではなかったようですが、源氏の祖先が代々名乗ってきた「大将軍」という肩書は武家の棟梁を名乗る上では重要なイデオロギーの問題だったとされています。蜂須賀小六はまたの名を正勝と呼ばれる羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎)の与力。直接的には織田信長の家臣でありながら、羽柴秀吉の下に派遣されている家臣といった感...その他の官職は土地の支配権や官職の任命権を委譲するものでありました。頼朝存命時、「鎌倉殿」及びその政治機構はあくまで関東武士団の政治機構であったため、決して日本全国に支配が行き届いていたわけではありませんでした。冷徹な政治家である頼朝とは違い、武芸や戦略に優れ熱い心を持った武将の義経は今でも人気を集めてやみません。義経と頼朝は黄瀬川で涙の対面を果たして以来、頼朝は本国にて武士の統率と領国経営、義経は前線にて木曾義仲や平家討伐にて貢献します。これは頼家を頼朝の跡取りであると神から認めてもらい、世間にも公に公開するいい機会だったのです。武家政権を開いたと聞くと、何だか初めから強力な力を持っていたかのような印象を受けますが、実はそんなことはありません。頼朝は挙兵した段階から徐々にこうした官職を加えられて他の追随を許さない勢力になっていきました。後白河法皇は腹黒さで知られている人物で、あわよくば頼朝の権威を削ごうとも考えていたとされています。しかし落馬ごときで人が死ぬかというのが普通の人の考えですよね?頼朝が鎌倉幕府として残した功績は、実はその根拠を朝廷から受けた官位に依拠しています。頼朝は征夷大将軍となる以前に一族の結束を中心に独立意識の強かった関東武士団を領地の保障と武家の棟梁という平氏政権とは違う形でまとめ政権基盤としたのです。武田信玄が『日本無双の名大将』と評価した上杉謙信。信玄はライバルであった謙信にどこか信頼も置いていたようで、自分が亡き後は上杉謙信を頼るようにと、跡を継...3男ではありましたが兄2人の母が卑賤の生まれであったことから嫡子として扱われ、若い頃から義朝の戦に同行しています。浅葱色(あさぎいろ)の羽織を着て、京都の治安維持に努めた新撰組。池田屋事件で長州の吉田稔麿や肥後の宮部鼎蔵らの計画を阻止し、京都の町を救ったことで大きく...頼朝は親族を散々殺しているためそれに悩まされ、挙句病んだとする説もありますが、現段階ではこれだと断定するのは困難なようです。「武家の棟梁なんだからそれくらいは当たり前だ」と言って頼家を追い返してしまいました。「一騎当千」という言葉があるのですが、この言葉は本来頼朝を指す言葉でした。政治の実権が天皇から武家に移っていくのは厳密には平清盛らの平氏政権からですが、日本は武家が支配するのだという概念を全国に普遍化させていったのは鎌倉幕府から。流罪先では親の反対を押し切ってきた北条政子と結婚し、やがて北条家等の多くの武士の協力を得て平氏政権に対し挙兵します。そのため、鎌倉幕府は決して朝廷の権威から独立した別個の政治機構というわけではなかったのです。しかし政子は亀の前の他にも何人かいた頼朝の側室を全て追い払ってしまったとされています。他には征夷大将軍となった翌年、頼朝はセレモニーの一環として富士の鷹狩りを行います。「判官びいき」という言葉は、きっと多くの人が知っていると思います。義経はそれに平時忠の娘を妻としてもらっており、武家による新政権の流れをぶった切るこの動きに頼朝は激怒です。事によっては平氏を滅ぼすことすら望んでいなかったとされる頼朝ですが、大事な大事な駒を戦に夢中で回収し損ねた事にさらに激怒。一ノ谷の奇襲、それに壇ノ浦の八艘飛びは義経個人の功績であると言われていますが、義経はカリスマゆえに純真無垢で頼朝が考えていた政治構想を逸脱する行為が頻繁に見られました。どこでもいますよね、有能ゆえに純真で規律とか全く度外視な人。義経も生まれる時代を間違えたのでしょうか?ところが、頼朝は同じく伊豆にいた頃から亀の前という愛妾を囲い政子に内緒で通うようになります。他には『猪隈関白記』では「飲水の病」と書いており、この解釈も様々あります。この2人がどうして争うことになったのかも詳しくみていきましょう。