野田秀樹さんが作・演出・出演されるnoda・mapの第22回公演は、1989年(平成元年)の初演からキャスト、演出を変えて上演され続けている『贋作 桜の森の満開の下(にせさく・さくらのもりのまんかいのした)』。妻夫木聡さん、深津絵里さん、天海祐希さんら豪華キャスト公演です。 野田版 桜の森の満開の下 感想 ―幻想的で美しい終盤が印象的― 概要. 坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を元に、野田秀樹が脚本を書き上げた作品。歌舞伎として上演されたこの作品だが、シネマ歌舞伎として映画館で上映されたので観劇。 感想のまとめ. それをきいているうちにオレの心が変わった。このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたないのだとオレは思った。「実はオレもだ、エンマロ。あの頃の俺たちは輝いていた!それがさあ。」「だから大きい声じゃ言えないけどオレは鬼だったころの方がなつかしい。」年々、桜が苦手になってきている。無情に咲いて、それはもう咲きまくって、いくつになっても新鮮に驚けるほど綺麗で、驚いているうちに一気に散って、気狂いじみていると思う。この世の追いつけなさ、を、こんなにシンプルかつ大胆に見せつけてくるものもそうない。桜が咲くだけでなにか切ない気持ちになるのは、俺がそうなっているんじゃなくて、桜にそうさせられているとしか思えない。「蛇口から膨らみ落ちる水」を詠んだ作品に対して「こういう何の役にも立たない、でも、確かに世界に存在する部分を短歌にするのは、とてもいいことだと思います」。男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落とそうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。一つ目の記事の方が乗代雄介の本心のような気がしませんか?(おそらく)一つ目の方を得意な文体すなわち得意な思考法で書いているとはいえ、「言葉から見ると、感情というのは絶海の孤島として」あるはずなのに、です。酔ってさえいればどんな曲がかかっても乗れてしまう。いやーめっちゃ楽しかったす、またイベントやるとき誘ってください。それが嘘じゃないから余計にタチが悪い。嘘ついてるんじゃなくて騙されてる。大学生になってからというもの、誰かとじっくり話すときに酒が入ってないことの方が珍しくなってしまった。酒飲んでしゃべってる内容も嘘じゃない。嘘じゃないからこそ、普段の俺もその時の俺もなんなんだ、と思う。酔ってなきゃどんなに好きな曲でも乗れない。面白いやなつかしいで観客の心を緩めて主張を刷り込むことは、バーで女を酔わせてホテルに連れ込むのと大して変わらないんじゃないか。そんなんやったことねーけどな。"とっさに彼は分かりました。女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。ヒメは無心に野良を見つめていた。新しいキリキリ舞いを探しているのかも知れなかった。なんて可憐なヒメだろうとオレは思った。そして、心がきまると、オレはフシギにためらわなかった。むしろ強い力がオレを押すように思われた。"「ダシャン」という延命装置によって、自分の人生を特別なものにしていけばそれはそれで快適だろう。しかし、ふいにやってくる揺るぎのない「ガシャン」に触れて、何を思うことができるか。それを熟慮することが、文学ではないのだろうか。いや、文学なんてもうないのだな。「ガシャン」を「ダシャン」に空耳する技術を高めるだけで精一杯で、創作物でさえその食い物だ。"こんなことばっか言ってたら今に何も楽しめなくなってこんなんになっちゃいそうだ。別に嘘でもいい、嘘つきでも好きだよ、と思えている間は何だって読めるし観れる。それだって酔っていることには変わりないが、自覚できていればそのぶんいくらかマシだと思う。「鬼だったころの方がなつかしい。」なんて簡単に言わせてしまっていいのか、と思います。「なつかしい」って、あまりに簡単に感情を揺さぶられてしまいませんか。遠く離れた故郷やもう戻ってこない時間はほとんど無条件に甘美なものになる。そんなのズルじゃん。「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」"彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。"彼の目は霞んでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変わらず矢張り女で、同じ女の屍体がそこに在るばかりだからでありました。""自らがダメな例を具体的に作って見せることによって、現状の歌がいかによいかを鮮やかに浮かび上がらせる。尊敬語ではなく謙譲語の発想というのだろうか、自分を下げて対象を上げるのだ。これは、誰も傷つかないで、みんなが勉強になるという画期的な手法でもある。こういつ発明ひとつをとっても、投稿者への愛情の深さがうかがえる。オレはヒメに歩み寄ると、オレの左手をヒメの左の肩にかけ、だきすくめて、右手のキリを胸にうちこんだ。オレの肩はハアハアと大きな波をうっていたが、ヒメは目をあけてニッコリ笑った。たしかに、「ダシャン」の歌を読んで、「ガシャン」ではダメだと言われると、絶対に「ダシャン」の方が面白いと思えます。面白い、から、じゃあその一瞬が特別なものになるかと言うと、それとこれとはまったく別な問題のような気がします。短歌はあくまでテクニックを楽しむつもりで一歩引いて読むものなんじゃないか。あんまり感動を求めすぎると、文学との境目が見えなくなってくる。そうなってしまうと文学も楽しめなくなりそうだ。yamaguchi33さんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?あるいは、「リンスを手に受けたままじっとしている」時間を詠んだ作品に対して、「社会的には『無い』ことになっている、そんな凍った時間が歌のなかで甦っています」と書いている。""「とうとう動かなくなったわ。なんて可愛いのでしょうね。お日さまが、うらやましい。日本の野でも里でも町でも、こんな風に死ぬ人をみんな見ていらッしゃるのね」誰かに何かを伝えようとする時だって、文章のうまい人だと思われよう--酔わせよう、としている。「もはやここに、内と外はない!上か下だ。わかるな、天か地だ!という脅し文。」 戯曲版『贋作・桜の森の満開の下』(新潮社、1992年1月5日) 作:野田秀樹。装幀:多賀新。 収録作品:「贋作・桜の森の満開の下」、「野田版・国性爺合戦」 ※ 「桜の森の満開の下」、「夜長姫と耳男」、「安吾新日本地理」を下敷きにした戯曲。 ところで、去年の9月に東京芸術劇場でNODA・MAPの『贋作・桜の森の満開の下』を観ました。 僕はこの芝居を観てから、野田秀樹を信じすぎてはいけないなと思うようになり… 感想 ネタバレが多い.
2019-03-28.
作・演出:野田秀樹 出演:堤真一(耳男)、古田新太(マナコ)、入江雅人(オオアマ)、深津絵里(夜長姫)、京野ことみ(早寝姫)、野田秀樹(ヒダの王)、大倉孝ニ(エンマ)、犬山犬子(ハンニャ)、荒川良々(赤名人)、平沢智(青名人)等々 ストーリー(あらすじ) 原作として坂 また、野田秀樹さん演出で戯曲化もされ、『贋作 桜の森の満開の下』(「がんさく」でなく「にせさく」だそうです)として上演されているようです。2018年の舞台が最新なのかな。さらにはシネマ歌舞伎になったりもしてるんですね。その辺り、詳しくは野田秀樹さんのサイト” 坂口安吾の原作『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』をベースに、“坂口安吾の生まれ変わり”を自称する野田秀樹が作り上げた戯曲。 1989年の初演から最新は2018年の再演まで約30年に渡って4回も再演が行われている、もはや野田秀樹の代表作と言える作品です。 山賊は女を背負って山に戻ると、桜の森は満開であった。山賊は山に戻ったことがうれしく、忌避していた桜の森を通ることを躊躇しなかった。風の吹く中、桜の下をゆく山賊が振り返ると、女は醜い鬼に変化していた。全身が紫色の顔の大きな老婆の鬼は山賊の首を絞めてきた。山賊は必死で鬼を振り払い、鬼の首を締め上げた。1975年(昭和50年)5月31日には、本作を原作とした映画が公開された。桜の花びらが舞うシーンには、花びらの形に切り抜いた大量の紙片が用いられている。都で女がしたことは、山賊が狩ってくる生首をならべて遊ぶ「首遊び」であった。その目をえぐったりする残酷な女は次々と新しい首を持ってくるように命じるが、さすがの山賊もキリがない行為に嫌気がさした。山賊は都暮らしにも馴染めず、山に帰ると決めた。女も執着していた首をあきらめ、山賊と一緒に戻ることにした。出発のとき、女はビッコの女に向って、じき帰ってくるから待っておいで、とひそかに言い残した。我にかえると、元の通りの女が桜の花びらにまみれて死んでいた。山賊は桜吹雪の中、声を上げて泣いた。山賊が死んだ女に触れようとするが、女はいつのまにか、ただの花びらだけになっていた。そして花びらを掻き分けようとする山賊自身の手も身体も、延した時にはもはや消えていた。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりだった。